2026年7月号(No.668)バックナンバー

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替えが効かないビジネスリーダーのコンディション戦略― 経営層のパフォーマンスと腸内環境:ASEAN各国で進む研究と実践―

はじめに

病気ではない。しかし、万全でもない。

シンガポールで日本人のビジネスリーダーの方々にお会いしていると、健康意識の高い方が非常に多いことに気づきます。ランニングを習慣にされている方、マラソン大会に出続けている方、週末にサッカーやゴルフなどのスポーツに汗を流す方も少なくありません。

一方で、健康診断では大きな異常がないのに、「昔より疲れが抜けない」「会食の翌朝に頭が回らない」「午後の会議で集中が切れる」「出張後の回復に時間がかかる」と感じている方も多いのではないでしょうか。病気ではない。しかし、万全でもない。こうした状態は、忙しさや年齢のせいとして片付けられがちです。

ただ、現地法人や地域事業を預かる立場にある方にとって、自身のコンディションは個人の健康問題にとどまりません。日々の意思決定の質が、そのまま組織のスピードと成果に直結するからです。

睡眠、運動、食事、ストレス管理。自身のコンディション管理において向き合うべきテーマは多くありますが、本稿で取り上げたいのは、近年世界的に注目されている腸内環境という視点です。なぜ腸がコンディション管理の入口になり得るのか。そして、感覚に頼らず自分の状態を可視化することに、どのような意味があるのか。世界の研究動向と、シンガポールやASEANの実践も交えながら考えていきます。

腸はなぜパフォーマンスの土台なのか

かつて腸は、食べ物を消化・吸収する器官として理解されてきました。しかし近年は、腸内に棲む細菌群、いわゆる腸内マイクロバイオームが、免疫、代謝、炎症、睡眠、ストレス、さらには脳の働きとも関係する可能性が示されています。

この変化は研究の量にも表れています。腸内マイクロバイオームに関する学術論文は、2007年前後を境に急増し、四半世紀で4万件を超えたとする分析もあります(1)。一過性のトレンドではなく、世界の医学・生命科学が本格的に向き合い始めた領域だと言えます。

なぜここまで注目されるのか。鍵は、腸が体の多くの機能とつながっている点にあります。腸内細菌は食べたものを分解し、短鎖脂肪酸などの代謝物を作ります。これらは腸のバリア機能や炎症、免疫の働きに関わると考えられています。さらに腸と脳は、神経やホルモン、代謝物を介して影響し合うとされ、その関係は「腸脳相関」と呼ばれます。強いストレスでお腹を壊す、胃腸の不調が気分や集中力に響く。多くの方に身近な経験ではないでしょうか。

もちろん、腸がすべての不調を説明するわけではありません。睡眠、加齢、運動、栄養。要因は複合的です。それでも、睡眠の質、疲労感、集中力、ストレス耐性といったパフォーマンスの要素を考えるうえで、腸内環境は無視しにくい視点になりつつあります。腸だけを見るのではなく、複数の生活要素をつなぐ入口として腸に注目する。私たちが提案したいのは、そうした捉え方です。

海外で働く人こそ、より意識したい腸内環境の変化

海外で働く人にとって、腸内環境の変化はとりわけ見落とされやすいテーマです。住む国が変われば、腸内細菌に届く「餌」が変わります。主食、野菜、発酵食品、油脂、糖質、外食や会食の頻度、アルコール、睡眠、運動量。これらが変われば、腸内環境も影響を受けます。

実際に移住と腸内環境の関係を調べた研究もあります。タイから米国へ移住した女性グループを追跡した研究では、移住直後から腸内細菌叢が変化し始め、半年から9か月のうちに、アジアの食生活と関わりの深い菌が米国型の菌へ置き換わり始めたと報告されています(2)。

これは、海外に出れば腸内環境が必ず悪くなるという話ではありません。ポイントは、腸内環境が固定されたものではなく、環境や食事に応じて変わり得るという事実です。駐在が長くなるほど、現地の生活は本人にとって「普通」になります。しかし体の内側は、日本にいた頃と同じとは限りません。海外で事業を率いるビジネスリーダーほど、自分の腸に目を向ける意味があります。

ASEAN各国で進む、経営層のコンディション投資

腸内環境への注目は、いまや国家戦略の一部にもなっています。その象徴がシンガポールです。シンガポールは2000年代以降、医療・生命科学を経済成長の柱に位置づけ、予防医療、精密医療、健康長寿へと重点を広げてきました。健康を福祉ではなく国家競争力と結びつける発想です。

コンディションと意思決定の関係も、ここでは研究テーマになっています。シンガポールは世界でも睡眠の短い国の一つとされ、Duke-NUSなどが、睡眠やストレスが注意力・記憶・気分に与える影響を実証的に調べてきました(3)。判断を仕事にする人ほど、無視できない視点です。

こうした国家的な取り組みの流れの中で、注力テーマとして腸内環境が浮上しています。象徴的なのが、GLOW(Gut Linked Outcomes in Wellbeing)と呼ばれる研究です。Duke-NUS Medical School などが連携し、大規模な精密医療コホートを活用して、6,000名を超える参加者を対象に、腸内マイクロバイオームと気分、認知、ウェルビーイングの関係を調べています(4)。アジア人集団を対象とした大規模研究として、世界的にも先駆的な取り組みです。

研究は、すでに現場でも動き始めています。2023年には、公的病院として世界初となる健康長寿外来が、National University Health System(NUHS)のAlexandra Hospitalに開設され、生物学的年齢などの指標をもとに、35〜70歳を対象とした個別の介入が行われています(5)。民間でも動きは速く、NUSの研究者が立ち上げたChi Longevityは、血液検査や血糖モニタリング、心理評価をもとに、腸内環境の最適化から睡眠改善、ストレス低減までを設計します(6)。「治療から予防へ」「寿命から健康寿命へ」という流れの中で、人のコンディションが、測り、整えるべきデータ領域として扱われ始めているのです。

この動きはシンガポールに限りません。インドネシアではFullerton Healthが経営層向けの検診センターを開き、リスクに応じて検査を組み替えるオーダーメイド型の人間ドックを提供しています(7)。タイのBumrungrad International Hospitalは、ホルモン検査や運動負荷試験を組み込んだ「Executive Wellness Program」を用意しています(8)。このように経営層の健康管理に特化したサービスが、ASEAN主要国でここ数年相次いで登場しているのです。

こうして経営層が自らのコンディションに投資する動きが広がる背景には、健康を福利厚生ではなく、生産性に関わる人的資本と捉える発想があります。組織の健康だけでなく、それを率いるビジネスリーダー自身のコンディションをどう保つか。判断の質が成果に直結するこの層にとって、これは先送りにできない課題になりつつあります。

替えが効かない人のコンディション戦略

現地法人や地域事業を率いる立場では、本社対応、現地マネジメント、採用、ガバナンス、複数国にまたがる調整など、正解のない判断が日々求められます。だからこそ問われるのは、単に長く働くことではなく、重要な場面で判断の質を保てるかです。

このような立場では、自身のコンディションが想像以上に効いてきます。睡眠不足が続く時、会食の翌朝に頭が重い時、出張の疲れが残る時、同じ情報を見ても判断のスピードと深さは変わる。普段なら気づくリスクを見落とし、説明の解像度が落ちる。小さな差でも、積み重なれば組織の成果に響きます。それでも責任ある立場の人ほど、「自分が動かなければ」と不調を後回しにしがちです。替えが効かない人ほど、その傾向は強くなります。

だからこそ、ビジネスリーダーのコンディションは、根性ではなく仕組みで整えるべきものだと考えます。人的資本経営という言葉は、多くの場合、従業員の能力開発やエンゲージメントの文脈で語られます。しかし、組織を率いるビジネスリーダー自身もまた、重要な人的資本です。その健康、回復力、集中力、判断の質をどう保つかは、これからの経営課題の一つではないでしょうか。コンディション管理は、余裕のある人の趣味ではなく、忙しい人ほど仕組みとして取り組むべきものです。

感覚ではなく、見える化して整える

健康意識の高い方々には、ある共通点があります。タイムや距離、扱う重量や体脂肪率——努力と変化が数字で「見える」活動を大切にしていることです。ある経営者は「40代を過ぎると、ランニングのように努力が数字で見えるものに惹かれる人が増える」と話していました。成果の出方が複雑なビジネスと違い、トレーニングは変化が数字で確認できる。それは自分を整える行為でもあるのでしょう。

では、体の内側についても、同じ発想を持てないでしょうか。データで管理するとは、体を機械のように扱うことではありません。自分の反応を知り、次に何を試すべきかを考えるための地図を持つことです。

実際に、自身の腸内環境の状態を踏まえて、コンディション改善の施策を取り入れている方の事例を紹介します。この方は、「早めにベッドに入っているのに眠りが浅い」「朝すっきり起きられない」という睡眠の質に悩みを抱えていました。腸内フローラを検査したところ、ビフィズス菌が日本人平均より少ない傾向が見られました。

睡眠には、ストレス、生活リズム、食事、運動、自律神経など、さまざまな要因が関わります。近年はこれに加え、腸内細菌が腸脳相関を通じて、ストレス反応や自律神経のバランス、休息モードへの切り替えにも関与する可能性が報告されています。ビフィズス菌を増やして腸内環境を整えることは、夜に身体が休まりやすい状態づくりを支える可能性があるのです。

そこでこの方には、フラクトオリゴ糖や水溶性食物繊維など、ビフィズス菌の餌となる成分を含む食材を、意識的に日々の食事へ取り入れていただきました。その結果、6か月後に再検査を行うと、ビフィズス菌の割合は増加。睡眠の質にも改善傾向が見られ、ご本人も変化を実感し、いまも見直した食事を続けています。

腸内環境の傾向が見えると、「何となく疲れている」「年齢のせいかもしれない」と一括りにしていた状態を、少し分解して捉えられるようになり、具体的な改善策の方向性が見えてきます。

弊社がシンガポールでも提供している腸内フローラ検査は、自宅で採取し、結果はスマホで確認できます。腸内にどのような菌がどの割合で存在するかを可視化し、重要な菌を増やすために、シンガポールでオンライン購入できる食材のうち、何を取り入れるとよいかを購入リンクとともに示します。紹介するのは弊社商品ではなく、入手しやすいものの中から最もお勧めできるものを選んでいます。ここまで具体的に踏み込むのは、検査の目的が結果を眺めることではなく、日々の食事や生活を実際に変えることにあるからです。

腸内環境の変化は、一日で起きるものではありません。食事や生活を通じて、少しずつ整えていくものです。そして、専門のクリニックに通うことだけが入口ではありません。こうしたサービスを使えば、手軽に自分の状態を把握し、日常に一手を加えることから始められます。大切なのは、自分の状態を知り、自分に合う整え方を見つけること。一般論の健康法を試すだけでなく、自分のデータをもとに次の一手を考える。その発想こそ、これからのコンディション管理に求められているのだと思います。

おわりに ― 自分のコンディションを、経営する

ここまで見てきたように、海外で働くビジネスリーダーにとって、コンディション管理はもはや個人の心がけではなく、経営基盤の一部になりつつあります。病気ではない。しかし、万全でもない。その状態を放置せず、自分の体に何が起きているのかを知ろうとすることは、これからの時代に必要な自己管理ではないでしょうか。

腸内環境は一夜で変わりません。しかし、日々の食事、睡眠、運動、ストレスケアの積み重ねで、確かに変わり得るものです。感覚だけで判断せず、自分の内側を見える化し、仮説を立て、少しずつ整えていく。その姿勢は、事業を経営することにも通じます。

本稿で触れたように、腸内環境は住む国によって変わっていきます。日本人ならではの傾向も、海外での生活が長くなるほど、少しずつ変化していくものです。私たちは、日本人の豊富なデータを基盤としながら、シンガポールをはじめとする海外でもサービスを展開しています。海外で働く日本人ビジネスリーダーのコンディション管理に、これからも貢献していきたいと考えています。

目次

<特集>


<着任のご挨拶>


<編集後記>


執筆者経歴

マイクロバイオーム領域に特化し、バイオ・医療・ヘルスケアを横断する事業を展開するKINSにて、海外事業を管掌。シンガポールではクリニック事業、台湾・中国ではヘルスケア関連プロダクト事業を展開し、規制対応を踏まえた事業設計と、医療・検査・プロダクトをつなぐ事業運営を推進。現在は、これらの事業基盤を活かし、腸内環境を起点としたコンディション管理と予防・個別化ヘルスケアを提供するLongevity/コンディションマネジメント領域の新規事業立ち上げを推進している。早稲田大学人間科学部を卒業後、リクルート、グロービスを経て現職。

sueyoshi_ryo@yourkins.com

シンガポール日本商工会議所

6 Shenton Way #17-11 OUE Downtown 2 Singapore 068809
Tel : (65) 6221-0541 Email : info@jcci.org.sg

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