2026年9月号(No.670)バックナンバー

HOME月報概要シンガポールのアカデミア発スタートアップ―研究成果を社会実装するエコシステムと、起業家としての経験―

シンガポールのアカデミア発スタートアップ―研究成果を社会実装するエコシステムと、起業家としての経験―

IMPACTFAT PTE. LTD., HEALBAC PTE LTD.
Co-Founder

杉井 重紀

はじめに

私は日本で大学を卒業した後、米国の大学院と研究所で脂肪細胞や代謝疾患の研究に携わりました。2011年にシンガポールへ移り、現在はシンガポール科学技術研究庁(A*STAR)において、脂肪代謝、脂肪由来幹細胞、培養技術などを中心とする研究に取り組んでいます。

脂肪は、肥満や生活習慣病との関係から、一般的には悪いものと捉えられがちです。しかし、脂肪細胞は単にエネルギーを蓄えるだけでなく、全身の代謝、免疫、組織の恒常性にも関わっています。私たちの研究室では、脂肪の量だけでなく、その質や機能を理解し、食品、栄養、パーソナルケア、医療などに役立てることを目指しています。

現在A*STARでは、食用魚から増殖と脂肪分化能力に優れた幹細胞株の樹立、食品に利用できる培地の開発、三次元培養、バイオリアクターを用いたスケールアップ、オメガ3脂肪酸の増強などに取り組んでいます。魚由来の培養脂肪は、植物性代替肉や培養肉の味・香り・食感を改善するだけでなく、機能性食品、栄養サプリメント、化粧品などへ有用な成分を届ける素材にもなり得ます。

この研究成果を社会実装するため、2022年に魚類の培養脂肪を開発するImpacFatを共同創業しました。また、脂肪幹細胞の研究から発見した抗菌ペプチドについても、2025年11月にHealBacとしてA*STARからスピンオフし、共同創業者として事業化に携わっています。

本稿では、シンガポール全体の起業環境に加え、A*STAR発のスピンオフ企業である上記2社の現在の活動に焦点を当て、アカデミア発スタートアップの強みと制約、日本企業との協業の可能性について考察します。

シンガポールでアカデミア発スタートアップを起業する

研究成果を事業化するための仕組み

シンガポールの特徴は、政府、研究機関、大学、企業、投資家の距離が比較的近いことです。政策上の研究重点分野が明確に示され、それに沿って研究開発、技術移転、人材育成、助成金、投資が組み合わされています。特に、食品、バイオテクノロジー、医療など、事業化までに長い時間と多額の資金を要する分野では、公的機関による支援が重要です。

A*STARでは、研究成果を知的財産として保護し、ライセンス供与やスピンオフを通じて社会実装につなげる仕組みが整えられています。2025年11月時点で、2011年以降240社以上のスピンオフが創出され、これらの企業は累計15億シンガポールドル以上の投資資金を調達しています。その中から、バイオテクノロジー分野のユニコーン企業MiRXESをはじめ、メタレンズ技術のMetaOptics、細胞解析技術のCurioxなど、株式上場に至った企業も生まれています。

近年、シンガポールでは、研究者の起業を支援するアクセラレータープログラムが充実してきました。代表例の一つがNational GRIPです。同プログラムは、大学や研究機関の成果から市場性のあるディープテック企業を生み出すことを目的とし、顧客ニーズの検証、知財戦略、事業モデルの構築、共同創業者のマッチング、資金調達などを支援しています。このほかにも、大学、政府・公的機関、ベンチャーキャピタル、大企業などが主催するプログラムが増えています。これらのプログラムは、研究者が技術の説明に終始するのではなく、顧客が抱える課題を理解し、市場で検証できる事業仮説に転換する機会を提供しています。A*STARでもEssentials Bootcampという独自のプログラムを研究者向けに開いています。

A*STAR発のスピンオフでは、研究機関と会社の役割を明確に分ける必要があります。A*STARは研究成果と知的財産を生み出し、会社はその知財をライセンスし、販売に向けた製品開発を進めます。研究者が共同創業者になる場合にも、A*STARにおける職務と会社での役割を区別し、兼業、知的財産、利益相反を適切に管理しなければなりません。こうした手続きには時間を要しますが、公的研究機関の成果を透明性のある形で民間事業へ移転するためには欠かせません。

ImpacFatでの現在の活動

ImpacFatでは、これまでにパンガシウス、ニホンウナギ、ハタなど、複数の食用魚種から脂肪幹細胞株を樹立してきました。魚を選んだ理由の一つは、研究開始当時、家畜由来(牛、豚、鶏など)の細胞培養は比較的多くの企業や研究機関が取り組んでいた一方、シーフード、特に魚の脂肪細胞に関する研究例が限られていたことです。競争の少ない領域であると同時に、研究者として解くべき課題が多く残っていると感じました。

また、魚の脂肪にはオメガ3脂肪酸をはじめとする栄養素があり、味や食感だけでなく、健康価値を付加できる可能性があります。長期的には、魚由来の培養脂肪を植物性タンパク質や他の培養細胞と組み合わせ、代替食品の味、香り、食感、栄養価を高めるB2B素材として提供することを目指しています。培養脂肪を加えたフライや餃子も試作し、食感を改善できる可能性を確認しています。

私たちの技術の特徴は、魚肉全体を作ることではなく、食品の品質と栄養を大きく左右する脂肪に焦点を当てていることです。また、培養条件を調整することにより、細胞内に蓄積する栄養素の組成を変えられる可能性があります。将来的には、培養脂肪を単なる動物性脂肪の代替ではなく、求める栄養成分を蓄積し、食品へ届ける「栄養リザーバー」として確立したいと考えています。

一方、新規食品としての規制承認、量産技術の確立、製造コストの低減には時間がかかります。そのため、現時点では、培養した魚類細胞やその産生物を活用した化粧品向け新規素材の製品化にも取り組んでいます。また、魚由来脂質の特徴を生かした栄養サプリメントも、将来の応用として視野に入れています。

2025年10月には、東京・高輪ゲートウェイシティの「TAKANAWA GATEWAY Link Scholars’ Hub(LiSH)」に、研究開発・事業拠点を設置しました。日本が持つ食品加工、素材、製造、品質管理の知見を取り入れ、シンガポールでの研究開発を補完するとともに、製造技術の確立、商品開発、安全性評価を加速することが目的です。

これらは、長期目標である代替食品事業に到達するまでの間に、技術の価値を異なる市場で検証し、収益、人材、製造経験、顧客との関係を蓄積することを目標としています。日本拠点についても、日本市場への販売だけを目的とするのではなく、シンガポールで生まれた技術と日本の研究開発・製造能力を組み合わせ、事業化を加速するための拠点と位置付けています。

技術的な選択と集中も必要です。研究者としては、多くの魚種を比較し、それぞれの生物学的特性を理解したくなります。しかし、会社としてすべての魚種を同時にスケールアップすることはできません。社会や顧客のニーズをつかみ、増殖速度、脂肪分化能力、栄養組成、製造適性、用途を最適化し、限られた資源を有望な細胞株と製品に集中させる必要があります。

HealBacにおける発見から事業への転換

HealBacの起点となったのは、脂肪幹細胞の研究から得られた予想外の発見です。私たちは、幹細胞が脂肪細胞へ分化する途中で病原菌に接すると、強い抗菌作用を持つタンパク質を分泌することを発見しました。さらに、その作用に関わる2つの新たなタンパク質を発見し、その活性部位である、短いアミノ酸鎖からなる抗菌ペプチドを同定しました。

この結果は、脂肪細胞やその前駆細胞が、脂質を蓄積するだけの細胞ではなく、外部の微生物を感知し、それに対抗する生体防御機能を持つ可能性を示しています。研究では、これらの新規ペプチドを創傷治療、パーソナルケア、食品保存などへ応用できる可能性も見いだしました。HealBacでは当初、食品保存への応用を検討していましたが、アクセラレータープログラムを通じて顧客ニーズと事業化の可能性を検証した結果、ペット向けの抗生物質代替ソリューションを最初のビーチヘッド市場に選びました。

この市場を選んだ理由は、現在の研究開発の進展を踏まえると、製品として販売するまでのハードルが比較的低く、早期の商業化を期待できると判断したためです。また、同じ技術はペットだけでなく、畜産動物にも応用できる可能性があります。畜産業における抗生物質代替へのニーズも高いため、まずペット市場で有効性、製品性、顧客受容性を検証し、その後、畜産分野へ展開する道筋を考えています。

これは、研究者が当初想定した用途をそのまま事業化したものではありません。顧客との対話を通じて市場の課題を調べ、自分たちの技術成熟度と照らし合わせて、最初に進む市場を選び直した結果です。実験室で強い抗菌活性を示すことは重要ですが、製品化には、対象動物での有効性と安全性、製剤化、量産コスト、使用方法、規制などを検証する必要があります。研究における発見は、事業にとっては出発点にすぎません。

研究者が共同創業者になる意味

研究者が共同創業者になる強みは、技術の背景、限界、応用可能性を最も深く理解していることと、私は考えます。仮説を立て、実験を行い、予想外の結果から次の方向を考えるという研究の訓練は、ディープテックの事業開発にも役立ちます。

一方、研究者だけでスタートアップを成立させることは困難です。私自身もA*STARでの研究と会社の活動支援を両立しているため、事業サポートに使える時間には限りがあります。そのため、ビジネスを主導し、同じビジョンを共有できる共同創業者を見つけることは必須です。同時に、それはアカデミア発の起業において最も難しい課題の一つでもあります。
経営経験があっても、技術への理解や会社が目指す方向が一致するとは限りません。反対に、研究への関心が高くても、資金調達、顧客開拓、チーム形成を担えるとは限りません。技術、事業、価値観の三つが合う相手を見つける必要があります。

私の場合も時間はかかりましたが、研究メンバーや知人のネットワークを通じて、ビジネスを担う共同創業者と知り合うことができました。研究成果をともに事業へ発展させられるチームを形成できたことは、実際に起業へ進む上での大きな判断基準になりました。National GRIPなどが共同創業者のマッチングを支援しているのも、研究成果と事業人材を結び付けることが、スピンオフ創出の重要な条件だからです。

また、研究室からも起業や社会実装に関心を持つメンバーが会社に参画し、研究開発をリードしてくれています。技術を熟知する人材が研究と事業を橋渡しすることは、A*STAR発の技術を継続的に発展させる上で大きな力になっています。

研究者と事業家では、正しいと考える判断が必ずしも一致しません。研究では、興味深い問いを深く掘り下げ、より完全な説明を目指します。一方事業では、限られた資金と人員の中で、何を行い、何を今は行わないかを決める必要があります。研究者が技術に責任を持つ一方で、経営、財務、規制、製造、営業には異なる専門性があることを認識し、適切な人材に任せることも重要です。

日本企業との協業可能性

A*STAR発のスタートアップにとって、日本企業は有力な協業相手になり得ます。培養脂肪では、培地、バイオリアクター、足場材料、スケールアップ、細胞品質管理、最終製品への配合などの技術が必要です。抗菌ペプチドでは、量産、安定化、製剤化、動物での有効性・安全性評価、規制対応が必要です。スタートアップ一社ですべてを内製することは難しく、日本企業が持つ素材開発、製造技術、品質管理の蓄積と高い親和性があります。

ImpacFatがLiSHに研究開発・事業拠点を設けたのも、こうした連携をより具体的に進めるためです。シンガポールで生まれた技術と、日本企業が持つ知見を近い距離で結び付け、共同研究から製品化までを一気に進めることを目指しています。日本を販売市場としてだけでなく、技術を共に育てる事業化パートナーとして捉える試みでもあります。

一方、協業では、意思決定の速度と期待値を早期に合わせる必要があります。スタートアップにとって数カ月の遅れは、資金繰りや競争環境に直接影響します。最初から大規模な提携を目指すよりも、目的、期間、予算、評価項目、知的財産の扱いを明確にした小規模な概念実証から始める方が現実的です。

また、A*STAR、スタートアップ、日本企業の三者が関わる場合には、研究機関で行う研究と、会社が実施する製品開発を明確に分ける必要があります。どの知的財産を既存技術として使用し、共同研究から生まれた成果を誰が保有し、どの分野で誰が事業化できるのかを、早い段階で整理することが重要です。

シンガポールを国内市場だけで評価すべきでもありません。国内市場は小さいものの、研究開発、規制対応、資金調達、国際連携、アジア展開のハブとして捉えれば、その価値は異なります。制度が英語で運用され、世界各国から研究者や起業家が集まっているため、設立時から国際市場を想定しやすい環境でもあります。 日本企業にとっても、シンガポールは完成した製品の販売先というより、A*STARや現地スタートアップとともに、新しい技術と事業モデルを検証する場所になり得ます。

おわりに

ImpacFatとHealBacの活動を通じて、研究成果の事業化そのものが、もう一つの研究開発だと感じています。市場や顧客との対話を通じて用途を絞り、規制や製造条件を踏まえて技術を組み替える必要があります。そのためには、研究者だけでなく、共同創業者、会社に参画した研究室メンバー、投資家、共同研究先など、異なる専門性を持つ人々との連携が欠かせません。
両社はまだ成長の途上にありますが、LiSHへの拠点設置や東洋製罐グループとの出資・協業など、シンガポールで生まれた技術を日本の研究開発・製造力と結び付ける動きも始まっています。ここまで支えてくださったA*STARをはじめとする関係機関、共同創業者、研究室・会社のメンバー、投資家、企業パートナーの皆様に感謝申し上げます。今後も皆様とともに、研究成果を社会で使われる形へ育てていきたいと考えています。

※本稿に記載された見解および評価は筆者個人のものであり、A*STARおよび所属機関の公式見解を示すものではありません。

目次

<特集>


<編集後記>


執筆者経歴

シンガポール科学技術研究庁(A*STAR)傘下SIFBI(シンガポール食品バイオテクノロジー革新研究所)主任研究員・Cultivated Technologies(培養技術)プラットフォームリーダー。A*STARスピンオフである、ImpacFatとHealBacの共同創業者。京都大学農学部、米ダートマス大学大学院、ソーク研究所を経て、2011年よりA*STARで脂肪代謝、幹細胞、培養脂肪、抗菌ペプチドを研究。

shigekis@impacfat.com

シンガポール日本商工会議所

6 Shenton Way #17-11 OUE Downtown 2 Singapore 068809
Tel : (65) 6221-0541 Email : info@jcci.org.sg

page top
入会案内 会員ログイン