2026年3月号(No.664)バックナンバー

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シンガポール国内での日本食50年の歩み ― 市場を築いたスーパー、文化を育てたレストラン、そして現場で見てきた半世紀 ―

CREATIVE FOOD CONCEPT PTE LTD
Managing Director

髙木 崇行

市場を築いたスーパー、文化を育てたレストラン、そして現場で見てきた半世紀

私がシンガポールに来てから、間もなく50年になります。当時の日本食は、今のように街角で気軽に食べられる存在ではありませんでした。寿司や天ぷら、ラーメンが「日常食」になるとは、当時は誰も想像していなかったでしょう。この半世紀を振り返ると、日本食の発展は自然に起きたのではなく、流通、現場、経済発展に伴う消費者意識の変化が重なって形作られてきたことがよく分かります。本稿では、私自身が現場で見てきた体験を交えながら、シンガポール日本食50年を三つの時代に分けて振り返ります。シンガポール日本食50年の歴史(年表)を参照しながら、読んでいただければ幸いです。

第一成長期(1974–1990日本の「食生活」がそのまま持ち込まれた時代

1974年、ヤオハンの進出は大きな衝撃をシンガポールに与えました。
それまで日本の食品は限られた人しか手にできませんでしたが、ヤオハンによって「日本の味」「日本の文化」が一気に生活の中に入り込んできたのです。

味噌、醤油などの調味料、カレールーなど。そして焼立てのパンは大人気になりました。特に、“あんぱん”は連日長蛇の列でした。また多くの日本の菓子も魅了しました。
行列ができる光景を見て、「日本には海外で受け入れられる良い商品がいっぱいある」と痛感しました。ヤオハンは店というより、日本食文化の入口でした。

1983年に大丸がリャンコートに進出すると、状況はさらに変わります。そこにはスーパーだけでなく、理髪店、写真店、紀伊國屋書店、日本食店(寿司、うどん、惣菜、ラーメン、日本の中華、喫茶店)など、日本人の生活に必要なものがほぼ全て揃いました。大丸は食品だけでなく、日本の衣類、生活雑貨などを用意したこともあり、日本人家庭が周辺に住み、日本人学校に子どもが通い、リャンコートは「買い物の場所」ではなく、日本の生活文化がそのまま再現された空間でした。まさにジャパンタウンとなったのです。

ヤオハンが市場を作り、大丸が質を高めた。この役割分担が、日本食を“商品”から“生活文化”へ押し上げました。

余談ですが、私はリャンコートのサービスアパートに20年間住み着いてしまいました。縁なのか、大丸が撤退した後、リャンコートの日本食店舗を引き継ぐことになったのです。(これらの店が“たんぽぽ”に生まれ変わりました)

ヤオハン、大丸の成功をみて、西友、東急(スーパーはないが、サンジェルマンのパン屋は超人気)、キミサワ(のちに伊勢丹スーパーへ)、そごう、高島屋(スーパーは地元CS)が進出しました。スーパーやデパートだけではなく、フォーリーブスという焼立てパン屋(1981年)も日系商社と現地企業の合弁でオープンし、連日長い列ができた記憶があります。場所は今では人通りがないラッキープラザ裏手のショップハウスでした。

レストラン黎明期の現場

日本食レストランの歴史についてお話します。シンガポールの日本食は在星日本人のために生まれたと考えております。遠く離れたシンガポールの土地で生活する日本人にとって食べたくなるのはやはり日本食。1974年(ヤオハン進出)以前は数軒の日本食販売店舗があっただけです。

日本食に絶対必要なものは、調味料(味噌、醤油、出汁)です。当時の味噌はチルド流通されていなかったので、味噌の色は黒くなっておりました。それと常温流通可能な、こんにゃくが重宝されておりました。こんにゃくは日本食には必須の食材でしたし、その輸出の歴史は1960年代にさかのぼります。日本産米の輸出は2010年ごろですので、日本のお米が入る50年も前の話です。これほど日本食がポピュラーになったのに、先輩格のこんにゃくの輸出が伸びていないのは、残念です。

当時の日本食店舗経営は、現地の女性と結婚した日本人料理人が作った日本食店舗でした。1980年代から大型ホテルが建設され、日系、外資系のホテルを問わず、高級日本食が出店しました。全日空ホテル(雲海)やホテルニューオータニ(千羽鶴)もあったのですよ。

シンガポールの料理人雇用状況ですが、人気第一は、ホテル直営の洋食、次に中華。それらの仕事にたどり着けなかった人が、仕事を求めて日本食店に勤務しました。言葉は中国語。当然日本語はできない。日本食の知識はゼロ。ただただ見て覚えるだけです。食材は殆どが現地食材。日本から空輸される鮮魚は高価で、高級日本食店でしか扱えなかった。日系スーパーの進出、ホテル内の高級日本食店の相乗効果で和食の基盤が確立したわけです。勿論飛躍的に増加した駐在日本人も大きな貢献をしました。

このように日本食店舗で味と食べ方を覚え、スーパーで日本食を購入し、日本食がシンガポールに浸透していきました。また多くのシンガポール人が日系企業で働いた事も無縁ではないでしょう。(日本人=長寿、日本食=健康食といった背景も無視できない社会現象だったと思います。)

日系の外食チェーン店舗の進出は2010年ごろから始まりました。日本国内の人口減少による市場縮小を危惧して、海外に市場を求めるようになったことが要因です。

淘汰と転換の時代(1990–2010)

1997年アジア通貨危機後、日系スーパーが次々と姿を消しました。一時13軒あった日系スーパーが一気に6軒になってしまいました。さらにデパート業界を襲う恐慌は続き、大丸までが撤退。(その後明治屋がスーパーだけ継承)アッという間に日系スーパーは、明治屋と伊勢丹の2軒になってしまいました。ヤオハン・そごう跡地にはローカルのスーパーが入り、日本食販売を一部続けてきましたが、大きな日本食市場を失いました。市場を支えてきた流通基盤が崩れ、日本食の未来が不安視された時期です。

しかし、この時代に支えとなったのが日本食レストランでした。店舗数は増え続け、日本食を「トレンドな外食文化」として広めていきました。スーパーが弱まる一方、レストランが日本食文化を守った時代だったと思います。因みに1991年には300店舗だった日本食店舗が、2010年には800店舗になりました。(店舗数は筆者の推定です)

第二成長期(2010–現在)

大丸撤退後、15年経過した2017年、ドンキがオーチャードセントラルに出店し、24時間営業を始めると枯渇していた日本食市場は一気に蘇ってきました。ヤオハンや大丸時代を思い出すほどの熱気でした。改めて、スーパーは単なる小売ではなく、市場を動かす大きな存在だと実感しました。ドンキは17店舗まで拡大し、かつてのヤオハンが目指していた日本食スーパーをアジアに普及することを実現しました。

ドンキの躍進に刺激を受けたのか、地元スーパーが動き出しました。日本食コーナーを増設し、直接日本の問屋からも商品を輸入し始めました。従来はシンガポール日本食問屋からだけ仕入れしておりましたが、直接購入して日本食をより安価に提供し始め、日本食の価格競争が生まれました。また日本のコンビニとは全く異なる品ぞろえのシンガポールコンビニでしたが、日本式のコンビニに方向転換し、独自輸入の日本菓子も取り扱い初め、どこでも日本食が手に入るようになりました。シンガポールの消費者はどこでも入手可能になると知ると、購買意欲を一気に失う傾向にあります。所謂供給過多の状態を生み出し、日本食は以前の様には利幅がとれなくなりました。

レストランの動向を見てみると、スーパー同様日本食店舗も急拡大し、2020年コロナ前には1200店舗を超えました。おまかせスタイルが急増し、安価な日本食から高価格帯まで幅広く拡大していきました。しかしコロナを契機に消費者はライフスタイルを変えました。宅配という新たな販売プラットフォームが出現しました。宅配はお店に行かなくとも料理が自宅まで届きます。出来立ての美味しさよりも便利さを消費者は好みました。その結果レストランは収入源であったサービスチャージ(10%)が取れなくなり、新たに発生する宅配手数料と合わせて大きく利幅が下がることになりました。

スーパーの競争、消費者のライフスタイルの変化、家賃・人件費の高騰、景気の後退は消費マインドを大きく変えます。今新たな挑戦が始まっております。

いま、日本食が立つ場所と2030年以降に向けて

現在の課題は明確です。家賃、人件費、食材コストの上昇。日本食は人気がありますが、経営環境は厳しくなっています。日本食はブームで広がった側面もあります。しかし、次の時代に必要なのは、流行ではなく「持続できるモデル」です。

日本国内でも同じような現象が起きておりますが、シンガポールは人件費、家賃、食材すべてが日本より高いです。過去は日本国内で成功したモデルをシンガポールに持ってきましたが、今はシンガポールで適用できそうなビジネスモデルが見つからないという現状です。官民協力して、海外でも長く通用する日本食ビジネスを開拓しないと、50年かけて築いた日本食市場は、自然に続くものではありません。日本食市場は縮小してしまいます。

今後すごい勢いで、市場再編が進むでしょう。ファストフードと高級店の二極化、スーパーの中食化(持帰り)などが進むでしょう。ローカルフードでさえ、厳しい直面を迎えるでしょう。シンガポール名物料理の海南チキンライスも市場から追い出されるかもしれません。シンガポールの経営者も継続可能な料理開発に日々努力をしております。

次の50年は「守る」のではなく、「時代に合わせて作り直す」段階に入るのだと思います。

結びに

この50年を振り返ると、日本食は多くの人の努力と工夫によって根付いてきたことを実感します。現場で奮闘した人々の積み重ねが、今日の当たり前を作りました。この執筆は眠っていた私の記憶を蘇らせてくれました。

日本の米が食べたい、日本の野菜が食べたい、日本の魚が食べたい、日本のお肉が食べたいと思いながらも、郷に入れば郷に従えと言い聞かせて地元料理の中に楽しさや美味しさを見つけていたと思います。シンガポール中のチキンライス店舗を食べ歩き、どこどこのお店が美味しいと自慢げに話をしておりました。飲料ビジネスに携わっていた私は、食と飲料との関係を日々考えておりました。日本式の飲料を作っても売れない、それなら自分がシンガポール人になりきって、地元料理を主食にしたら、どんな飲料が飲みたいか分かるかもと真剣に考えました。本当に多くの商品を発売しましたが、ヒット商品は出ませんでした。1990年代に開発したPET入りの緑茶(有糖)の成功は、やはり日本食ブームのお蔭だと思っております。人に歴史があるように、食品にも歴史があります。ライフスタイルの変化に伴い、食生活も変わります。でも日本食を愛する気持ちだけは変わらないと思うこの頃です。

日本食の未来がこれからも続いていくことを願いながら、ペンを置きます。

目次

<特集>


<着任のご挨拶>


<編集後記>


執筆者経歴

1952年、岐阜県生まれ。1971年東海高校卒業。1976年慶応義塾大学法学部法律卒業。

明治屋を経て、1977年4月ポッカコーポレーション入社。1977年ポッカシンガポールに赴任。1995年ポッカシンガポールをシンガポール証券取引所一部に上場。

2003年Creative Food Concept Pte Ltd 設立し、独立(現職)

2011年J-Dining Consultant Pte Ltd設立

2016年Tampopo Sdn.Bhd.設立

50年に渡り一貫して、飲料・食の事業に従事。アジア全域にて日本食の普及に努める。代表的な商品・店舗として、緑茶・ウーロン茶、珈琲飲料、マンゴプリン、とんかつ専門店、カフェレストランなどがある。

シンガポール日本商工会議所

6 Shenton Way #17-11 OUE Downtown 2 Singapore 068809
Tel : (65) 6221-0541 Email : info@jcci.org.sg

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