2026年8月号(No.669)バックナンバー

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シンガポールのヘルステック動向

ABEAM CONSULTING (SINGAPORE), PTE
Healthcare lead in APAC Manager

上田 哲也

はじめに

東南アジアにおけるヘルステック分野への投資はコロナ禍を契機に急増し、一時的な調整局面にあるものの、生成AIやデジタル技術の進展により、中長期的な成長が期待されている。投資対象は遠隔医療、健康・ウェルネス、個別化・予防医療、フェムテック、福利厚生、院内オペレーション最適化、診断機器といった領域であり、医療の質・効率・アクセスといった課題解決と強く結び付いている。

シンガポールを中心に、東南アジア各国でアーリーステージのスタートアップ支援も活発である。今後は、生成AIを活用した診断サービスの勃興や、遠隔医療のスタートアップのプラットフォーム化が注目され、保険と連携した新たなビジネスモデルの進化が見込まれる。注目すべき昨今の事例や、業界を跨いだビジネスモデルを構築している企業を中心に紹介する。また、なぜシンガポールがヘルステックの中心地となっているのかについて、政府政策および投資家の観点から分析する。

ヘルステックとは

ヘルステックとはWHO(世界保健機関)が定義するHealth Technologyから派生しており、「健康課題を解決し生活の質を向上させるために開発された、医薬品・医療機器・ワクチン・手技・システムの形をとった、組織化された知識と技術の応用1」と定義されており、医薬や医療機器も包含する広い概念である。しかし、近年のヘルステックは多くの調査機関・投資家が使っている言葉のデジタルヘルスとも同義であり、「デジタル技術を用いて医療や健康を改善する分野」を指す。本記事においては後者を対象とする2

東南アジアのヘルステック市場の規模・成長率・投資動向

東南アジアにおけるヘルステック企業へのベンチャー投資は、2023年に約5億米ドルでピークを打った後、2024年に約1.2億米ドルへ急落した(前年度比約79%減)。2025年はさらに選別が進み、Tracxnによれば2025年8月までの東南アジアのヘルステックの調達額は約4,000万米ドルで、域内の活動企業は約2000社(2025年9月)である。

但し、2024年の投資額急減はバブル崩壊ではなく、世界的なテック投資の引き締め、パンデミック特需の反動、投資家の選別強化が重なった調整と解釈でき、特に2025年は1件の大型投資(後述のUltraGreen.ai)があったことから、投資態度が「量から質へ」転換していることが鮮明になったといえる。

主要セグメントのトレンド

当該市場の成長を牽引する主要因として、以下の5点が挙げられる3

  • 高齢化:ASEANの60歳以上比率は2020年の約11%から2050年に約22%へ倍増見通し。2030年には60歳以上が1億900万人超。シンガポールは2025年時点で65歳以上が5人に1人。
  • 疾患の変化:高齢者数増加に伴い、高血圧・糖尿病等の生活習慣病・非感染性疾患(NCDs)が増加。慢性疾患管理・在宅モニタリング・肥満/代謝ケア需要が拡大
  • 医療費インフレ:医療費が経済成長を上回るペースで増加(約5%/2025年)
  • デジタル浸透:スマホ・ネット普及の急拡大で、モバイルファーストのヘルスサービスが実装可能。
  • 生成AI:米国で盛んな生成AIのモデル開発を発端に、ヘルスケア分野への応用が躍進

これらを背景に以下のセグメントが成長を牽引

  • 遠隔医療

パンデミックを機に定着したサービス形態であり、単なるオンライン相談から、オンライン診断+処方薬デリバリー+検査+保険連携を束ねる垂直統合プラットフォームへと進化。シンガポールのDoctor AnywhereやインドネシアのHalodoc, Alodokterが有名。

 

  • 健康・ウェルネス

高齢化が急速に進むシンガポールやタイでは介護領域におけるデジタル活用が注目されている。また、世界的にGLP-1系肥満治療の世界的ブームと肥満が社会問題化している当七時あでも、医薬×デジタル×コーチングを束ねるケアサービスが台頭しつつあり、Novo NordiskとNOVI Healthがパートナーシップを組んだ。

 

  • 個別化/予防医療

AI画像診断、臨床意思決定支援、文書作成の自動化、パーソナライズド予防プラン生成等。シンガポールではSynapxeやNational University Health System (NUHS)が開発し、公的医療機関に提供。

 

  • フェムテック

急速な少子化を背景に、東南アジアのフェムテック市場は世界で最も成長が早く、シンガポールのFathomXは乳がん検診AIを提供。

 

  • 福利厚生

雇用主の医療費負担増を背景に、従業員向けヘルスベネフィットのデジタル化が進行。シンガポールのRewardzやMednefitsは柔軟なベネフィット・マーケットプレイスをシンガポールやマレーシアの企業や従業員に提供。

 

  • 院内オペレーション最適化

医療従事者の負担軽減と収益回復を狙う領域。シンガポールのBot MDはチャット上のAIエージェントで患者モニタリング・予約・フォローを自動化し、医師2万人超・SG/MY/ID/PHの50超施設で利用されている。

 

  • 診断機器

2025年に最も資金を集めたUltraGreen.aiの蛍光ガイド手術は、手術中に組織の視認性を高めるためのリアルタイム画像化技術で、手術の精度が高まり、患者の合併症リスクの低減や予後改善にも寄与。

シンガポール政府の動向

シンガポールの強みは、RIEから実行主体の省庁・法定機関と国家プラットフォームが階層的に接続され、かつ民間に開かれている点にある。

シンガポールは国家研究イノベーション戦略(RIE)を頂点に、RIEC(Research, Innovation and Enterprise Council)が置かれ、その事務局かつ実行主体としてNRF(National Research Foundation)が設置されている。RIEは4つの垂直ドメインと横断イネーブラーで構成され、ヘルステックはその中の「ヒトの健康と潜在能力」のテーマに相当し、集団規模の精密医療、バイオメドテック・バイオ製造のグローバル拠点化、生涯にわたる健康な高齢化の3本柱を掲げている4

例えば、精密医療に関しては、実行主体はMoH参加のPRECISEとA*STAR GISが担い、SG100K, GRIDS, EXTRACT Labといったプログラムとプラットフォームを構築しており、アジア人ゲノムを整備している。現在は事前競争的に一部の製薬会社が協働で利用開始。日系の製薬・診断・ヘルステック企業はこのアジア人ゲノム・データ活用が可能となる5

主要投資家

東南アジア、とりわけシンガポールのヘルステック投資は、政府系ファンドがアンカーとなり、その上に独立系VC, 事業会社CVC、グロースPE/機関投資家が連なっている。また、政府系ファンドは財務省系のTemasekツリーと通商産業省系のEDB/Enterprise SGツリーに大別される。前者は商業リターンを軸に、後者は産業育成・企業誘致の政策目的で投資を行う。

独立系VC、事業会社CVC、機関投資家はシンガポールに限らず、米国、日本、台湾といった外資系VCも積極的に東南アジアのヘルステックへ投資活動を行っている。

注目企業

東南アジア各国の主要セグメントにおいて、各々ヘルステックが存在しているが、特にシンガポール7社に注目して紹介する。各社を理解する上で、ビジネスモデルキャンバスを基に要素分解を行った。(特定できなかった要素は割愛)

①Doctor Anywhere(遠隔医療)

  • Doctor Anywhereは遠隔医療プラットフォーマーとして知られており、利用者数も多く、資金調達額も大きい。ビジネスモデルは典型的なマルチサイドプラットフォーム事業の形態を持ち、顧客は患者だけでなく、保険者や医療機関、法人も対象としている。展開地域はシンガポール・マレーシア・タイ・ベトナム・フィリピンとASEAN域内を中心とし、SG政府、製薬、病院グループ、民間保険とパートナーシップを組むことで技術的な支援、顧客基盤・医療者ネットワークの獲得、収益の多様性を実現している。
  • 創業者兼CEOのLim Wai Munは前職はStandard Charteredのプライベートエクイティ(アジアの不動産投資)、その後約10年間Temasekに在籍しLNG企業Pavilion Energyの立ち上げに関与してきた人物である。2016年、高齢者向け配食のボランティア中に外出困難な高齢者の受診難に問題意識を持ち、無給サバティカルを取得した。当初は在宅高齢者と医師をプロボノで繋ぐ活動から始め、持続的な活動へと移行するため遠隔診療の商用サービスへ発展させた。

②Homage (健康:在宅・高齢者ケア)

    • Homageはヘルスケア・介護テクノロジープラットフォームを提供しており、ビジネスモデルは2サイドプラットフォーム事業。有資格の介護士や看護師等の専門職(パートタイムを含めると約1万5000人)と在宅介護や訪問医療サービスをスマートテクノロジーでマッチングさせている。現在は、マレーシアやオーストラリア、日本にも事業を拡大している。

③Mesh Bio(個別化/予防医療)

  • AIとデジタルツイン技術を活用し、医療機関向けに慢性疾患の診断・管理を支援する予測分析ソリューションとワークフローの自動化サービスを提供。患者の健康状態や代謝プロセスをモデル化し、一人ひとりの健康状態を可視化する技術を開発。

④Moom Health(フェムテック)

  • Moom Healthは、現代のアジア人女性のウェルネスニーズに特化したシンガポール発のD2Cセルフケアブランドで、主に月経前症候群や睡眠、ホルモンバランスなどの女性特有の悩みに寄り添うサプリメントやドリンクなどの健康補助食品を展開。

④Rewardz(福利厚生)

  • 2012年にシンガポールで創業されたスタートアップで、企業向けに従業員の福利厚生、表彰、健康増進、そして顧客ロイヤリティを向上させるためのデジタルプラットフォームを提供する企業。2016年に日本のBenefitOneが子会社化した。

⑥Bot MD(院内オペレーション最適化)

  • チャット型AIエージェントで域内50超の医療機関に実装済み。新興国で「医師は複数のスマホを持ち歩くがPCはない」という観察が原点にあり、WhatsAppなどのチャットツールを活用し、患者の予約管理や遠隔モニタリングを自動化するシステムを開発した。

⑦ai(診断機器:蛍光ガイド手術 × AI)

    • aiは蛍光色素、リアルタイムの画像システム、AI(人工知能)を組み合わせた「蛍光ガイド手術(FGS)」のプラットフォームを提供し、手術の精度向上や合併症の低減に寄与する。MedTech(医療機器)とヘルステックの境界に位置する。長く自己資金・黒字経営だったが、2025年に大規模な資金調達を実現した。2025年9月に約1.88億USDの戦略投資(企業価値 約13億USD)、2025年12月にシンガポール取引所へIPOし、約4億USDを調達(SGX:ULG)した。

今後のシンガポール動向

シンガポールは他国と異なり、シンプルかつ統合された医療制度であり、3つのクラスターがデジタル基盤を共有し、新たな技術や取り組みパイロットを実施し易く、全国展開への経路が短い特徴がある。また、成熟した規制と共通言語(英語)があり、急速な高齢化という課題もあり、医療に関するイノベーションが起こりやすい。

昨今の政府の動きとして、MOHとSynapxeがAI・データ活用の前提基盤を段階的に整備している。特に HEALIX(AIの工場)・HealthX Sandbox・SS719/720:2025(相互運用性標準)・生成AI投資(1.5億S$) は、民間事業者にとっての事業機会の土台となる。SynapxeはOpenAI・Google Cloud・Databricks・AIDX TECHと提携しAI社会実装を加速、画像診断ではAimSGを整備している。このことからデータに基づく予防医療が注目されていく事が予想される。また、Ultragreen.aiのSGX上場成功は、今後のヘルステックの出口市場としてSGXが機能し始めている事も示唆している。

シンガポール日本商工会議所

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Tel : (65) 6221-0541 Email : info@jcci.org.sg

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