2025年10月号(No.659)バックナンバー

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地政学の観点から見るASEAN・シンガポールの展望

Associate Professor/ Head of Division, Public Policy & Global Affairs Programme,
School of Social Sciences, NANYANG TECHNOLOGICAL UNIVERSITY
南洋理工大学 社会科学部公共政策・国際関係学科 准教授・学科長

古賀 慶(こが けい)

はじめに

現在、自由貿易や民主主義の促進、国際法の遵守、人権の尊重といった、いわゆる「リベラル国際主義」を基盤とする国際秩序は、重大な岐路に立たされている。2017年の第一次トランプ政権以降、米中対立が激化し、アメリカは国際主義から部分的に離脱した。2020年には新型コロナ・パンデミックによって世界的な外交活動が停滞し、2022年2月にはロシアのウクライナ侵攻が勃発した。同年8月には当時のアメリカ下院議長ナンシー・ペロシの訪台により台湾海峡の緊張が一層高まり、さらに2023年10月にはハマスによるイスラエル攻撃を契機にガザ紛争が発生した。これらの国際紛争・緊張・課題は現在も継続しており、加えて2025年の第二次トランプ政権の誕生によって「アメリカ・ファースト」を掲げた外交政策への転換が図られることで、国際情勢の不確実性はいっそう増大することとなった。

端的に言えば、現在の国際環境の変化は、アメリカによる一極体制の衰退に起因している。冷戦後、アメリカはリベラル国際主義を基盤とした新たな世界秩序の構築を目指し、軍事的・経済的・政治的支援を提供してきた。しかし、2000年代のアフガニスタンやイラクでの対テロ戦争によって疲弊し、さらに2008年のリーマンショックを契機に、その一極体制はほころびを見せ始めた。他方、中国の著しい台頭は、東シナ海や南シナ海における強硬姿勢だけでなく、2013年以降の「一帯一路」を通じた経済的影響力の拡大を伴い、地政学的安定を大きく揺るがす要因となった。

当初、オバマ政権はアメリカの相対的衰退に対処するため、「国際秩序の維持」を掲げ、同盟国やパートナー国に対して支援を呼びかけた。それに応えるよう、日本を含む価値を共有する国々や、既存の秩序から戦略的・経済的利益を享受してきた国々は、アメリカとの協力関係強化を支持した。しかし、中国が提供する巨大な経済的利益の影響は大きく、いわゆる欧米諸国が主導してきた「世界基準」とは異なる、中国発の規範やルールを受け入れる国家も少なくなかった。その結果、国際秩序は単一的ではなく、多元的な様相を呈するに至った。

インド太平洋における地政学的な環境変化

国際秩序の多様化は、アメリカの一極体制、すなわちその「優位性」を揺るがすこととなった。そのため、第一次・第二次トランプ政権はもとより、バイデン政権においても、同盟国と共に既存秩序の維持・強化を推し進めると同時に、同盟国やパートナー国に対して一層の負担分担を求めるようになった。とりわけ、アメリカが戦略的重点を置くインド太平洋地域では、この傾向が顕著である。実際、トランプ政権期には軍事的・経済的双方で明確な負担分担が求められた。軍事面では、2025年6月のシャングリラ・ダイアログにおいて、ヘグサス国防長官がヨーロッパ並み(3.5〜5%)の軍事費拡大を要請した。また経済面では、同年4月に「相互関税」の導入に踏み切ったのである。

「相互関税」は、多くの場合、各国との貿易交渉の手段として掲げた傾向が強い。例えば、日本に対しては当初24%が設定され、ASEAN諸国の中で最も対米貿易黒字の大きいベトナム、タイ、マレーシア、インドネシアには、それぞれ46%、36%、24%、32%が課された。また、その他のASEAN諸国では、カンボジアが49%、ラオスが48%と高水準であり、シンガポールのみが10%と低い基準であった。これらの措置は交渉を通じて相互関税の引き下げにつながっており、絶対的な数字ではない。しかしながら、その水準はベースラインの10%を下回ることはなく、自由貿易を基調とする既存の国際経済秩序に正面から挑戦するものとなった。

同時に、アメリカの関税政策には多くの不透明性が伴っている。例えば、アメリカ国内では相互関税に対して違法判決が下されている。トランプ政権は、国の安全保障や経済的脅威を根拠に「国際緊急経済権限法」(IEEPA)を適用しているが、同法は過去に主として経済制裁に用いられており、関税に適用された先例は存在しない。この違法判決が確定すれば、2026年内に一定の関税が撤廃される可能性がある。しかし、関税を課される国家側からすれば、一時的にでも経済的不利益を緩和するため、交渉に応じざるを得ず、そのことが現下の状況を形成している。

このようにアメリカの外交・経済政策には不透明性が一層高まっており、各国における対米信頼度は低下せざるを得ない状況となっている。その結果、今後アメリカとの協力を重視するか否かにかかわらず、インド太平洋諸国は常にリスク・ヘッジを考慮せざるを得なくなっているのだ。これは、これまで「リベラル国際主義」を前面に掲げてきたアメリカの存在が極めて薄くなった世界でもあり、インド太平洋における地域秩序は大きな転換期を迎えている。

変化するASEANとシンガポールの役割

それでは、ASEANやシンガポールはいかなる姿勢でこの転換期に臨んでいるのか。まず、2025年の議長国であるマレーシアは、ASEANを先導し、アメリカとの経済交渉において共同対応を試みている。既存の米ASEAN協力枠組みを活用し、地域としての声を集約することで交渉力を高めようとしているのである。しかし、加盟国間で経済利益が大きく異なるため、こうした協調的交渉は困難に陥っている。さらに近年では、南シナ海問題、ミャンマー問題、ガザ紛争などをめぐり加盟国の足並みが乱れることが多く、ASEANは対外交渉の効果的な外交ツールとして機能しにくくなっている。

ただ、これらの問題が生じてもASEAN全体が機能不全に陥ったり、制度的に崩壊したりする可能性は低い。なぜなら、ASEANは依然として、東南アジア域内における政策調整や協力交渉の場であると同時に、域外国との対話の場を提供する有用性を保持しているからである。しかし、加盟国間の足並みが常に乱れていれば、各国がASEAN以外の選択肢を模索する契機となり得る。実際、BRICSは東南アジアにおいて新たな国際グループとして注目を集め、2025年にはインドネシアが正式加盟し、マレーシア、タイ、ベトナムもパートナー国として参加した。これにより、域外国との新たな協力関係の模索が進展している。

シンガポールは経済立国である一方、その市場規模は小さく、域外国との関係を強化しなければ自らの国際的価値を維持・向上できないことを認識している。自由貿易体制はこれまでシンガポールにとって有利に機能してきたが、アメリカの政策転換によってその秩序の持続性は不透明となった。そのため、同国は対策の一つとして国家間連携の強化を進めている。具体例としては、シンガポール・チリ・ニュージーランドが2020年に署名した「デジタル経済連携協定」(DEPA: Digital Economy Partnership Agreement)や、シンガポール・イギリス・ケニアが2025年に設立した「カーボン市場拡大推進連合」(CGCM: Coalition to Grow Carbon Markets)が挙げられる。これらの枠組みはオープン性を特徴とし、DEPAには韓国が加盟し中国も加盟申請をしており、CGCMにはパナマやフランスが加わっている。

すなわち、大国主導の国際秩序が揺らぐなか、力を増しつつある東南アジア諸国はASEANの存在を相対化しながら、各加盟国がミニラテラルやマルチラテラルの枠組みに参加、あるいは自ら構築することで、新たな地域秩序の形成を進めているのである。

戦略的パートナーとしてのシンガポール

国際戦略環境の変化は、今日のビジネスにも直結している。大国間競争に伴う半導体関連の輸出規制を含む「経済安全保障」は、サプライチェーンの構築・再構築に直接影響を与えている。他方、アメリカの相互関税はマーケットアクセスを制限し、対米輸出に依存するアジア諸国の経済に大きな負の影響を及ぼしている。

こうした状況における重要な施策は、米中両国との経済関係を可能な限り維持しつつも、自由貿易を基調とする同志国との新たな経済連携を強化することである。シンガポールはその点で、日本にとって重要なパートナーとなり得る。すべてのセクターにおいて完全な連携を実現することは難しいかもしれないが、両国は「環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定」(CPTPP)のメンバーであり、さらにシンガポールは日本が推進する「アジア・ゼロエミッション共同体」(AZEC)にも加盟している。

日本がシンガポールの連携強化イニシアティブに積極的に参画することで、例えば重要鉱物におけるサプライチェーンの確保や、地域におけるルールや規範形成への貢献が可能となる。これにより、自由貿易と経済安全保障のバランスを取ることができるだろう。不透明感が高まる国際戦略環境において、シンガポールをはじめとする同志国との関係強化は、今後の国際秩序、ひいては国際ビジネス環境の安定化を左右する重要なカギとなろう。

目次

<特集>


<編集後記>


執筆者経歴

シンガポール・南洋理工大社会科学部国際公共政策・国際関係学科・准教授/学科長。近著では、(共著)「Japan’s Grand Strategy: Liminal Power in an Uncertain World」(Oxford University Press, 2026 [出版予定])や、「Managing Great Power Politics: Managing Great Power Politics: ASEAN, Institutional Strategy, and the South China Sea」(Palgrave Macmillan, 2022)がある。また、全米アジア研究所(NBR)非常駐フェロー、日本の平和・安全保障研究所(RIPS)研究委員会メンバーを兼任。タフツ大フレッチャー・スクールで国際関係学博士号を取得。kkei@ntu.edu.sg

シンガポール日本商工会議所

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