2025年9月号(No.658)バックナンバー

HOME月報概要是永大輔インタビュー ~SG60・SJ60 を語るにふさわしい人物

是永大輔インタビュー ~SG60・SJ60 を語るにふさわしい人物

ART RESILIENCE
Director

松島 久美子(まつしま くみこ)

2025 年はシンガポール独立60周年(SG60)。そして来年2026年は日本シンガポール外交関係樹立60周年(SJ60)。近年になく日本とシンガポールの交流に耳目が集まっている。

日本とシンガポールの二国間関係は、政治、経済、産業、商業、文化、そしてスポーツとあらゆる面で緊密に繋がっている。そんな中、サッカーというスポーツによって日本とシンガポールの友好関係を深めた方がいらっしゃる。サッカーチームアルビレックス新潟シンガポール会長の是永大輔氏。彼はアルビレックス新潟シンガポールの社長、会長を歴任し、赤字経営から黒字へと大転換、売り上げ規模を50倍にも拡大させ、2016 年から 2018 年までは 3 シーズン連続でシンガポール国内タイトルの全てで優勝する、という快挙を成し遂げた。両国関係の強化、深化に著しい貢献を果たした彼に、これまでの成功の秘密、シンガポールでビジネスをする利点、シンガポール愛、今後の展開、SJ60にあたってのメッセージ、などについて7月23日、アルビレックス新潟シンガポールオフィスにて、お話を伺った。(以下K:是永大輔さん、M: 松島)

サッカー少年、サッカーを仕事にする

M: こんにちは。今日はよろしくお願いいたします。まず最初に何故サッカー関係のお仕事をすることになったのかお話しいただけますか?

K: 小学校の低学年からずっとサッカーファンでした。サッカー雑誌を買ってボロボロになるまで読んでいたおかげで、例えば小学校の授業中に、イタリアの都市名を20個も30個も言えてしまったんです。 周りはちょっとおかしいように思ったでしょうが(笑)、この時、サッカーと世界は繋がっているんだな、と感じました。

自分自身で人生をデザインするためには差別化が必要だと思い、大学は日本大学芸術学部演劇学科演技コースに進学しました。卒業する時がちょうど2002年日韓共催ワールドカップの年でした。初めて日本で開催されるワールドカップ、そして自分が生きている間では最初で最後かもしれない。一般の企業に勤めて事務処理をしている場合じゃない、サッカーの仕事をしなきゃ、と思いました。インターネットでサッカーの仕事を探していたら、”超ワールドサッカー“というモバイルサイトでアルバイトを募集していました。大学生の時には寝る間を惜しんでサッカーの記事を個人ブログで書いていたので、時給800円でしたが、好きなことができるなら、と応募しました。ところが、募集は1週間前に締め切られていました。でも、諦めずに電話をして、面接だけでも、とお願いして面接をさせていただいたら、合格をいただきました。200人中2人!確率100分の1!

M: すごいですね!

K:  そしてもう一つ、横浜FCのオフィシャルライターという仕事にも応募しました。これも200人の応募者の中の2人に選ばれました!100分の1かける100分の1って、一万分の一じゃないですか。そうか、自分はこのサッカー業界で選ばれた人間なんだ、と大いに勘違いをしました(笑) 。でも、若者の勘違いはアクセルになるのですごくいい、 とは思っています。

そうこうしているうちに、モバイルサイトの会社で評価が上がってきてしまいました(笑)。大学生の時に趣味でやっていたことと同じこと、ただサッカーの記事をたくさん書いただけなのに、お金は稼げるし、褒められるし、時給は上がる。半年後には正社員にもなり、1年後には編集長になっていました。 “超ワールドサッカー”はワールドカップの時は15,000人ほどの会員数でしたが、その後15万人ぐらいまで増えました。

M: トントン拍子ですね。

K: 取材と称して 年の3分の1はヨーロッパにいて、ビールを飲んで、サッカーの試合を見て、原稿を書いて。この繰り返しです。これはいい仕事だなあ、と思っていました(笑)。その後、ヨーロッパでの仕事を積極的に作りました。FCバルセロナやマンチェスターユナイテッドのオフィシャルモバイルサイトを立ち上げたら、リバプールからは逆にうちもやりたいと話が来ました(笑)。マンチェスターには翌日くらいに飛んで打ち合わせをしました。

M: すごいですね!そこからどうやってアルビレックス新潟に繋がるんですか?

K: それからCDを出したり、 雑誌を出したり、マーチャンダイジングをやったり、広告のことをやったり。 サッカービジネスに関しては大体やらせてもらっているな、と思っていたところ、アルビレックス新潟シンガポールというチームの社長を探しているという話を聞いたので、手を上げました。サッカークラブの社長という仕事は、ドリームジョブだと思っていました。60歳ぐらいにできればいいなと思っていましたが、29歳で始めることになりました。

シンガポールならではの成功

M: うーん。すごい。それで2008年、29歳の時にシンガポールにいらっしゃることになったんですね。 それから18年。赤字経営を立て直し、大成功なさった。やっぱり、シンガポールだからできたのではと思うんですがいかがでしょうか。

K: サッカーはこの国で特別なスポーツです。シンガポールでは、スポーツのプロリーグはサッカーしかないのです。

M: おー 、そうなんですね。 面白いですね。

K: ですので、 シンガポール人のサッカーに対する注目度は高い。シンガポールのサッカーがとても強い時代があったことも関係していると思います。

シンガポールサッカーリーグ誕生

M: 強かったって言うのは、マレーシアリーグで優勝した頃ですか?

K: そもそもシンガポールには、シンガポールがひとつのチームとしてマレーシアのリーグに参加している時代がありました。1980年代後半から 90年代、シンガポールチームは特に強かったです。1万人ものシンガポール人がバスに乗ってマレーシアのアウェイゲームを観にいくほど。ホームゲームだと5万人のスタジアムが真っ赤に染まるほどの熱気でした。1994年にシンガポールがマレーシアのリーグ戦とカップ戦でW優勝を果たしました。すると、マレーシア側から八百長じゃないかと言われ、それなら自分たちのリーグを作ろうよ、という流れになり、1996年にシンガポールリーグが誕生しました。Jリーグができたのが1993年ですから、遅れることわずか3年。ところが、リーグが立ち上がった当時は人気がありましたが、進めるにつれてどんどん人気が下降していきました。

M: え、どうしてですか?

K: マレーシアリーグに参加していた時はあんなに盛り上がっていたのに、どうしたんだろう?シンガポールサッカー協会も考えました。その結果、ナショナリズムが足りないんだ、という結論に行き着きました。つまり、マレーシアリーグのすべての試合がシンガポール対マレーシアだったので、盛り上がったんだ、と。そこでシンガポールサッカー協会は、シンガポールリーグの中に他国のチームを入れればいいじゃないかという仮説を立て、外国チームを招聘することになりました。中国や韓国、アフリカなど、様々な国のチームを招聘したのですが、様々な理由でどれも上手くいきませんでした。そこでシンガポールサッカー協会から日本サッカー協会に日本でやってくれるクラブはないかと相談があり、手を上げたのがアルビレックス新潟でした。そして、2004年にアルビレックス新潟シンガポールが誕生しました。

アルビレックス新潟シンガポール誕生から成功へ

M: 2008年アルビレックス新潟シンガポールの社長さんに就任なさって、何回かリーグ優勝とカップ優勝と両方果たされた時ありましたよね。それに加えてしかも文化交流の点でも成功できたっていうのは、これはシンガポールのどういった面が支えてきたと思いますか。

K: クラブのスローガンがThe reason、つまり存在意義、レゾンデートルですね。

当初は、選手やスタッフが日本人だけで構成されていたクラブでした。すると周囲からは、なぜ日本人のチームがシンガポールにあるんだ、という疑問が出てきますよね。ですので私たちは、その存在理由をオン・ザ・ピッチだけでなく、スタジアム外でも表現していかなければいけない、と思っていました。今でこそローカルのクラブになりましたが、それまではいわばJリーグの中にブラジル人だけのチームがあるような感じですから。ブラジル人チームがただボールを蹴っていたら誰も応援しない。しかし、地域の人たちと積極的に関わったり、ボランティアなどで交流が生まれると、そのチームを応援したくなりますよね。

そもそも設立した当時は、アルビレックス新潟の若手選手にシンガポールでプレーする機会を与え、後に呼び戻してプレーさせるということが目的でした。ところがその後、アルビレックス新潟がJ1に昇格したことにより、こちらでプレーしていた選手が戻れない、という現象が起きました。戻れなくなった選手たちは、シンガポールの他チームに移ったり、アジアやヨーロッパ、アフリカの国でプレーすることを始めたのです。その頃は、三浦知良選手や中田英寿選手などのスター選手以外が海外でプレーすることなど考えられなかった時代だったのですが、ある意味アルビレックス新潟シンガポールがこの門を開いたと思っています。

アルビレックス新潟シンガポール自体はなかなか優勝争いに絡むことがなかったのですが、2011年にシンガポールカップを制覇して初タイトルを獲得しました。その後、2016年から2023年の8年間には、6回のリーグ優勝を経験することができました。

また、2018年には選手の年齢制限のルールができるなど、制約が課されていったのですが、そのたびに課題を解決し結果を残すことができました。一方で、徐々に在籍する若いシンガポール人選手を増やし、日本人のプロフェッショナリズムを肌で感じてもらうことを意識的に増やしました。私たちの存在意義の大きな部分が、シンガポールサッカーとシンガポール社会への貢献へと変わっていきました。

シンガポールサッカーへの貢献

K: 日本とシンガポールのサッカー交流、という意味では、2014年にはシンガポールのナショナルチームを新潟に招待し、デンカビッグスワン(アルビレックス新潟の本拠地)でプレーしてもらったりして日本のサッカーを経験してもらうことと同時に、歓迎パーティーでは芸妓さんの踊りをご覧いただくなどユニークな文化交流も図りました。2016年にはAlbirex Sports Development Fundを設立、若手シンガポール人選手の育成にさらに注力することにしました。例えば、当時は将来性のある若手のひとりだったAdam Swandiという選手を2度に渡り新潟に招き、それぞれ1ヶ月ほどトレーニングに参加してもらいながら、トップチームの試合にも招待しました。そして、2018年にはそのAdamとゴールキーパーのShahul Rayyanがアルビレックス新潟シンガポールに加入。その後、Adamはシンガポール代表としても特別な選手のひとりとなりました。

地元コミュニティへの貢献

M: アルビレックス新潟シンガポールは地元コミュニティへの貢献が大きいということですが、具体的にはどういうことをなさっているか教えてください。

K: ホームタウンであるYuhuaという行政区のコミュニティにおける活動に注力しています。代表的な活動はYuhua Albirex Football Academy (YAFA)です。この運営費は、クラブがスタジアムの入場者一人あたり1ドルをYuhuaに寄付することで賄っていました。地域の子どもたちは毎週開催されているYAFAの活動に参加することによって、社会性を身につけたり、定期的に運動の機会を得ることになります。2012年の開始以来YAFAの参加者は約2万8千人に達しました。これまでの寄付額は$132,183となっています。さらにInstitute of Technical Education (ITE) College Westとのパートナーシップを開始、スポーツビジネスを専攻している学生たちのインターンシップや奨学金制度の部分で協力しています。

例えば来年はSJ60ですが2016年SJ50の時には、在シンガポール日本大使館主催で行われた各種イベント、例えば高島屋でのチアダンスパフォーマンス(アルビレックスシンガポールチアダンススクール)、Yuhuaへの寄付金贈呈セレモニー、当時のシンガポールサッカー協会会長Zainudin Nordin氏が行なったJapan Creative Centre(JCC)での講演などにも参加しました。

M: そういえば当初かなりの赤字経営だったのが黒字回復、それどころか一時は売り上げ規模を50倍にも拡大されたんですよね?

K: それはやはりスロットマシーン事業を始めたことが大きいですね。たまたまです。

M: スロットマシーン事業については日本側からかなり反対が出たそうですね?

K: いや、そんな事実はありませんよ。まず、シンガポールのサッカークラブだけでなく、たくさんのSocietyもスロットマシーン事業に注力していました。シンガポールのSocietyは、日本で言えばNPO法人に近い存在です。例えば、少し前まで日本人会館にもスロットマシーンがありました。シンガポールにはシンガポールのルールがあるので、それに則って事業拡大をしただけです。もちろん、スロットマシーンからの収益はサッカークラブの活動のみで使わなければならないという規則はありましたし、そもそも参入するのも厳しい許認可制です。うちは海外クラブなので申請が承認されるまでに足掛け3年ほどかかりました。一時は所有するスロットマシーンが18台となり、それだけで収入が今のレートで言うと年間約45億円となりました。ですので、2023年にシンガポール全土でスロットマシーン事業に政府から厳しい規制がかかると、すべてのサッカークラブの収入は激減しました。

シンガポール愛

M: シンガポールに引っ越されてまずどんなことを感じましたか?

K: 東南アジアに来ることは初めてでしたが、とても綺麗な国だと感じました。ここなら住めるなと思いました。今となっては、住めるな、どころか、住みたい、なんですけど。

M:その時は住めるなぐらいの消極的なプラスの気持ちだったのが、今は積極的に住みたいっていうふうになったんですね。やっぱりそれはシンガポールに対する愛があるのかなと思うんですけど。

K: ちょうど今日、Re-Entry Permitを更新できたので、また5年間いられることになりました。

M: おめでとうございます。素晴らしい。じゃあまだ最低5年はまだいらっしゃるわけですね。ちなみに是永さんのシンガポール愛の一番最大のものはなんでしょうか。

K: この国の政府はとても賢くてしっかりしていると思いますし、一方でベンチャー企業のようなアグレッシブさもあります。資源もないし、人口も少ないことをよく知っているから、様々なことに挑戦する。失敗したと思ったらすぐ方針転換できる。税金もフェアに感じるし、可視化されているし、何よりもすごくシンプルですよね。

M: あともう一つ、ご結婚なさってお子さんもこちらで生まれた訳ですよね。そうするとやっぱりシンガポールは教育レベルも高いし、そういうことも考えられたのでしょうか。

K: まさにこの間話していたのですが、結果的にすごくいい環境だったねと。ありがたいですね。

サッカーは劇場

M: 他のインタビューで読ませていただいたんですけれども、選手とサポーターが一緒にアルビレックス新潟シンガポールを作っている。これはどの辺から可能になってきたんですか。

K: サッカーは劇場だと思っているんです。

M:さすが演劇科出身!

K: サッカー選手は、舞台で言うと役者さん。選手が役者で、サポーターが観客。そして、いい試合はいつも観客が作ってくれます。観客が応援すれば必ず勝てるというわけではないのですが、観客の応援に熱がこもると必ずいい試合ができるんですよ。

M: 非常に面白い。

K: 観客の皆さんには、一緒にいい試合を創るために応援してください! といつも言っています。

あと一歩足が伸びてれば、という場面で、タックルが入ったり、ギリギリの点が入ったり守れたりする。観客の声援があると、選手たちはもう一歩の力が出せるんですよ。自分がもしプレーしていたらそう思いません? 誰かに頑張れ!と言われた方が頑張れる気がしませんか?

SJ60-日本とシンガポール外交関係60周年-そして今後

M: 遅くなりましたが、来年はSJ60、日本とシンガポールの外交関係が始まってから60周年ということで、それを記念して2025年4月2日シンガポール国立大学(NUS)のトミー・コー名誉教授と駐シンガポール日本国特命全権大使、石川浩司氏の共同編集による、日本とシンガポールの友好関係についての英語書籍“The Land of Rising Sun and The Lion City: The Story of Japan and Singapore”が刊行され、是永さんも寄稿されました。おめでとうございます!

K: 本当に素晴らしく誇らしい機会をいただいたと思います。アルビレックス新潟シンガポールと自分のこれまでを振り返ることができました。貴重な機会を作っていただいた石川大使に心から感謝申し上げたいと思います。その出版記念パーティの際、リー・シェンロン上級相が、“日本人が戦時中にシンガポールに対してやったことを決して忘れてはいけない。けれども日本人がその後やってくれたことも忘れてはいけない”と仰っていました。やはり、事実を整理して是々非々に理解をしてくれる国だから、シンガポールが好きです。これはやっぱり僕らの先人の日本人の皆さんが努力して関係性を作ってくれた結果だと思うので、私たちはそれを将来に引き継いでいかなければならないと思います。

M: 建国の父、リー・クワン・ユー初代首相が昔“我々は忘れることはできない。完全には許すこともできない。しかし、最初に魂に安らぎを与え、次に日本人が誠実に謝罪をあらわしている中では、多くの人の心にある苦しみを救うことができる。”と言ったことに関連しているようですね。(注: “Forgive, but never forget”(「許そう、しかし決して忘れない」)とは言っていないそうです。シンガポールの日本人コミュニティでよく知られている言葉ですが、原文で確認できないそうです。)

K: 日本とシンガポールに限らず、国家間の信頼関係はお互いにフェアでなければ成り立たちません。嘘やごまかしではなく、しっかりと向き合ってくれるのがシンガポールだと思います。だからこちらも同じようにして向き合うことによって、SJ70、SJ80へとつながっていくのではないでしょうか。

M: それでは最後にアルビレックス新潟シンガポールの今後について教えてください。

K: 2024年からローカルクラブになったので、やはり地域との関わりというものがこれまで以上に重要になると考えています。何より、シンガポールになくてはならない存在となること。シンガポールの人々に“アルビレックスがあってよかった”と思っていただけるクラブになることこそ、私たちのThe reasonです。

M: 今日はどうもありがとうございました。

インタビュー後記

とにかく元気、楽しい、面白い、1時間半があっという間に過ぎました。サッカー大好き少年が誰も読まないのにサッカー記事を寝る間も惜しんで書いていたのが、サッカー関連の仕事につき、アルビレックス新潟シンガポールの社長就任、大赤字だったクラブをスロットマシーン事業その他で立て直し、シンガポールリーグでも優勝するなどチームの強化に成功、地元コミュニティのためのサッカーアカデミーを作ったり、バルセロナ、タイ、カンボジア、ミャンマーなどにもビジネス展開したり(現在はクローズしていく方向)、チアダンススクールも始めたり、日本人クラブだったのをローカルチームへと変えた。人と競争するのが嫌い、オリジナルになりたい、ブルーオーシャンを目指す、是永大輔のユニークな人生目標をしっかり貫き、追求してきたその成果が着実に現れているのだと思います。特に感心したのは、最初に探した仕事の求人が締め切りを過ぎていたのに、電話をして“面接だけでも”と頼んで、それだけでもすごいのに、面接の結果200人中2人に選ばれてしまう!FCバルセロナのオフィシャルウェブサイトを作ったのもすごいですが、その後マンチェスターユナイテッドの時は返事が来た翌日にマンチェスターに行って打ち合わせしちゃう!その行動力と決断の速さ。もちろん運の良さもあると思いますが、幸運を引きつけてしまう強い情熱。しかもしっかり収益を上げることは忘れない、優れた経営者、起業家である。大多数の一会社員として働く方々でも学ぶところは大きいのではと思いました。こういう方がシンガポールの日本人コミュニティとシンガポールとの良好な関係を支えて、リードしてくださっているのだと改めて感謝いたしました。どうもありがとうございました。

文中の写真:執筆者撮影

目次

<特集>


<着任のご挨拶>


<編集後記>


執筆者経歴

東京生まれ。アーティスト及びコレクター。個人事業Art Resilience主宰。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。レコード会社、フリーライターを経てアメリカでMBA取得。2000年帰国カルティエジャパンにてプロダクトマネージャー。その後CNN放送通訳を経て1999年ニューヨークに移転。2003年プラットインスティテュート美術大学入学。2005年首席卒業。日本に帰国。2009年香港に移転。創作活動、グループ展などへの参加に加えて、外国人女性の会でアート関係のイヴェントの企画運営に携わる。2020年、シンガポールのラサールカレッジオブジアーツ大学院にてアートセラピーのコースを1学期受講。2021年4月シンガポールに正式移転。グループ展参加および個展開催。2023年9月シンガポール女性芸術家協会会員となる。アジア・ソサエティ香港センター、NPO法人日本国際藝術研究院などによる絵画展で賞受賞。2024年東京都現代美術館にてレクチャー、そのほかトーク、ワークショップなども行っている。作品はアメリカ、フランス、香港、日本、マレーシア、シンガポールなどでコレクトされている。

Website:https://www.kumikomatsushima.com

kumikomatsushima333@gmail.com

シンガポール日本商工会議所

6 Shenton Way #17-11 OUE Downtown 2 Singapore 068809
Tel : (65) 6221-0541 Email : info@jcci.org.sg

page top
入会案内 会員ログイン