2025年9月号(No.658)バックナンバー

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博士課程を通じた人材育成

Associate Professor, SINGAPORE UNIVERSITY OF TECHNOLOGY and DESIGN
シンガポール工科デザイン大学 准教授

橋本 道尚(はしもと みちなお)

1.はじめに:「高度職業訓練」としての博士課程

技術革新、政情不安、パンデミックなどを背景に、大学や企業を問わず、現在の世界は「予測できない変化」が前提となっています。そのような環境を生き抜くためには、不確実性に耐えながら業務を遂行できる能力を備えた人材が一層の競争力を持つと考えます。その観点では、博士課程修了者は、特定分野での高い専門知識に加え、不確実性や長期課題への対応、プロジェクト管理、課題設定・解決などを試行錯誤し実践した経験を有しています。こうした経験を備えた人材は、企業にとって課題解決のための大きな潜在的戦力となり得ます。

本稿では、大学の理工系教員である筆者が、博士課程とは何かを紹介しつつ、それを「高度職業訓練」として再定義します。博士課程で得られるスキルを明確にすることで、企業の人材活用や学生の進路決定に資することを目的としています。終身雇用が揺らぎ、副業や転職が前提となる時代に、博士課程を「研究者の徒弟制度」としてだけ捉える必要はありません。博士課程で得られる能力を具体的に理解し、企業での業務に転用できるか評価することは、学生と企業のどちらにも有益だと考えます。なお、本稿では筆者の経験を踏まえ、主に理工系の博士課程を想定しています。本稿はエッセーとして執筆したものであり、記載内容は筆者の私見に基づくものです。

2.大学の役割

博士課程について説明するにあたり、まず大学の役割を整理します。大学の役割は大きく分けて「教育」と「研究」です。「教育」は既存の知識を教えること、「研究」はこれまで存在しなかった知識を生み出すことです。学生の立場からみると「教育」は高校までの経験の延長です。理工系であれば、100年以上前に誰かが見つけた定理や、装置の使い方、プログラミングなどの実務的スキルを学ぶことになります。これらは重要であり習得に時間もかかりますが、あくまで既存知識の習得が目的です。日本に限らず世界中の大学の大半で、学部教育が提供するのは「教育」です。一方で「教育」はあくまで「教育」でしかなく、世の中にこれまで存在しなかった学術的知識を生み出す「研究」とは本質的に異なる営みです。冗長に思われるかもしれませんが、この違いをあらためて共有することが博士課程について理解する上で重要だと考えており、このような説明をしました。

日本社会では「学校歴」(卒業大学の違い)は重視される一方で、「学歴」(学士、修士、博士の学位の違い)の価値は必ずしも十分に評価されていません。多くの企業人が「大学は役に立たない」と口にするのも定番ですが、それは大学の「教育」をする側面しか見たことがないことに起因するとも考えられます。本質的には「学歴」とは「既存の知識を学んだか」と「新しい知識を生み出したか」の違いに帰するものです。大学で学部教育を受け卒業した優秀な人材が、生涯で一度も「研究」に携わることなく会社に入り、そのまま退職まで勤め上げるのが日本の美しいキャリアパスですが、大学教員としては多くの方に「研究」に携わって欲しいと考えています。

大学での研究は主に教員や研究員によって遂行されますが、その中で「博士課程」は学生自身が特定のテーマに取り組み、主体的に成果を生み出すためのプログラムです。博士課程の学生は研究遂行のためのトレーニングを受け、研究成果を出すことが求められます。ここで重要なのは研究を行うこと自体が企業に資する高度人材のトレーニングになっているという点です。博士課程の研究は、プロジェクトを立ち上げ、推進し、完成させるまでに必要な多様な能力を養う場であり、その成果は単なる技術的知識の獲得にとどまりません。むしろ、これは近年教育関係者で注目されている Project-based Learning(PBL)(座学ではなくプロジェクトを通じて学びを深めていく教育の手法)と同質の教育プロセスであり、私見ですが、博士課程はまさにその最たる実践形態だと考えています。

「教育」に含まれる知識を伝える機能は、中長期的には技術革新により大幅に自動化・省力化されていくと思います。しかし一人ひとりへのフィードバックを通じて進める「研究」のプロセスは、人間の関与が続くだろうと思います。その意味で、大学が社会に提供する価値は、今後ますます「教育」(既存の知識の伝達・習得)から「研究」(新しい知識の創出)へ移っていくと考えています。

3.博士課程の役割

それでは博士課程では実際にどのような経験を積むのでしょうか。理工系の博士課程というと、白衣を着て試験管を振る姿や、ヘルメットをかぶって測定を行う姿がイメージされるかもしれません。確かにそのような実験や計測は重要な経験のひとつです。しかし博士課程の本質は、むしろ「ひとつのプロジェクトを立ち上げ、推進し、完遂する」ための On-the-Job Training (OJT) の場にあると捉えられます。博士課程の研究員が具体的に行う内容は以下の通りです。

1.そもそも何をするかを決める(プロジェクト立案)
2. それが意味のあることを示す(意義付け)
3. 先行研究・競合などを理解する(市場調査)
4. どんな手法で貢献するかを定める(手法選択)
5. 技術的な貢献を行う(技術的解決)
6. 得られた結果を分析する(データ分析)
7. 成果を学会・論文などで発表する(プレゼンテーション、書類作成)

 

さらに人によっては、

・チームメンバーに(5), (6)の指導を行う(メンタリング)
・結果をもとに資金を獲得する(予算獲得)
・結果を幅広く周知する(広報活動)

 

などにも取り組みます。言い換えれば、博士課程とは特定の学術的課題を題材に、こうしたプロジェクトの全過程を実践的に経験するトレーニングです。「関連知識を勉強する」とか「試験管を振る」はもちろん一部ではあるのですが、課題の立ち上げ・意義付けから成果の発信までを一貫して主導する場になります。(私はビジネスの知見はありませんが、上記のリストでは、どのように企業での仕事に転用できるかを想像して追記しています。)

その意味では、博士課程の「学生」と言いますが、実際には「研究員」であり、「研究」という仕事を責任を持ってこなしている立場です。この点が、私が博士課程は職務経験に匹敵すると考える理由です。余談にはなりますが、博士課程は「自分のためのお勉強をする」のが主な目的ではありませんので、多くの国では給与をもらっています。研究員としての職務経験として認識される国も少なくありません。この点においては日本での認識が変わることを望んでいます。

また本稿では詳細は割愛しますが、修士課程は「教育」を受けながら「研究」を一部経験する段階と理解するのが妥当です。例えば修士課程の学生は、多くの場合チームの経験者から「まずはこの分野を勉強するとよい」「この実験をやってみるとよい」といったアドバイスを受けて研究を進めます。プロジェクトに必要な要素を経験者に整理してもらった中で「技術的な貢献を行う(技術的解決)」ことが役割となる場合が多く、必ずしも独立してプロジェクト全体を見渡しているとは言えません。ここに修士課程と博士課程の大きな違いがあると考えています。そのような潮流の中で、日本の大学の修士課程は、諸外国と比べても「研究」に重きをおいているプログラムが多く、これは人材育成において特筆すべき点だと考えています。

4.博士課程の価値

長くなってしまったの一度まとめます。理工系の博士課程で培う能力とは、自ら何を言いたいかを定め、その周囲の文脈を俯瞰し、必要な実験や検証を計画し、技術的に解決し、それをわかりやすく説明する総合的なプロジェクト管理の能力です。さらにその研究に必要な研究費を獲得するための申請書作成、予算作成、財務処理も経験します。得られた成果を国際学会で発表し、国際誌に論文として出版することが卒業要件となる場合も少なくありません。当然英語を含む外国でのコミュニケーションが必要になります。これらの活動を自分の名前と責任で遂行する点にも博士課程の大きな特徴があります。ここで養われるのは、まさにオールラウンドな能力であり、物事を自分の名前で遂行する当事者意識です。この点においては、企業という組織の看板を背負って仕事を進める場合とは根本的に異なる価値観を伴うこともあると思います。

もちろん、こうした経験を積む場は博士課程だけだとは思いません。企業でプロジェクトマネージャーを務めれば同様の経験を積むことができますし、起業をすれば組織を俯瞰して運営する視点が必要になるでしょう。とはいえ、様々なオプションを考えた上で、今の日本社会で20代半ばの段階で自分で何をするかを決める責任と自由度を与えられる機会は多くありません。一方で博士課程のコアバリューは自分で何をするかを決めてそれを守ることです。研究指導をする立場から見ても、自らのテーマを最初から主体的に決定できる学生は決して多くありませんが、卒業に近づくにつれて大きく成長し、自立していく姿を数多く目にしてきました。そのような学生は、卒業後にどのような進路を選んでも活躍できると確信しています。もちろんどの程度の自由度や責任を与えるかは企業によって異なると思いますが、博士課程は若い段階でこの水準の経験を積める貴重な場です。その意味で、学生には博士課程を高い技術力とプロジェクトマネジメント能力を育む「高度職業訓練」の一環として捉えてほしいですし、企業にもこうした人材を積極的に活かすことを期待しています。

5.博士号取得者は「専門バカ」なのか

これは多くの企業の方が気にされる点かもしれません。「専門バカ」という言葉が、特定の分野には詳しいが他の分野の理解に乏しくバランスを欠いた人物像を指すのであれば、博士号取得者は決してそうではありません。前段で述べた通り、適切なトレーニングを受けた博士号取得者はプロジェクトを俯瞰する能力を備え、多様な状況に対応できる人材です。

私自身も研究者として、特定の技術に思い入れを持つことはあります。しかし研究職のトレーニングでは、まず課題があり、それを解決する最も適した手法は何かということから考えます。新しい技術を生み出したら、それをもともと想定したものより広い文脈に位置付け、社会的な受容まで見据えて議論をします。これらは私の所属する工学系分野においては当然求められますし、研究員もそのような視点を持って研究に取り組んでいます。特定の技術領域にしか興味がないかといえばむしろ真逆で、自分の専門性を広い文脈で生かすことを常に考えています。例えば、私自身の専門は流体力学ですが、その知見を応用する方法を考えています。それは医療装置の開発であり、三次元プリンティングのような製造技術であり、細胞性食品(人工肉)と呼ばれる食品分野などです。これらは私自身が博士課程で研究した分野ではありません。時代と社会が求めるものに従い、必要な専門性を有するメンバーでチームを作り、専門性を用いた社会貢献の仕方を考える、これらは全て博士課程の土台の上に培った能力だと考えています。

「専門バカ」に関連して、コミュニケーションに関しては、多くの企業の方が懸念される点でもあると理解しています。しかしながら、大学の研究室における活動は本質的にチームワークを前提としています。博士課程の学生であれば、新しく加わったメンバーの研究指導(メンタリング)を担当することもあれば、他の研究室や企業を含む外部の共同研究者とのミーティングに参加することも日常的です。昨今では博士課程在学中の海外留学が卒業要件になり、外国の研究室でゼロから人間関係を立ち上げる学生も多数います。研究職は個人プレーヤーというイメージを持たれがちですが、実際には研究活動を通じて多様な場面でのコミュニケーションの機会があります。したがって、企業の方々にも博士課程の学生と直接対話し、ぜひその能力を確かめていただければと思います。

まとめると、博士課程は専門知識を深めるだけでなく、それを社会の中で意味ある形に結びつける力を養う場です。日常的にチームで活動し、研究を通じて多様な人々と協働する経験を積み重ねます。研究に没頭するからといって、自分の殻に閉じこもった「専門バカ」になるのではなく、むしろ自分の専門をどのように社会とつなげられるかを考える訓練の場が博士課程です。学生の皆さんには自信をもって進学してほしいと思いますし、企業の方々にも博士人材の力をもっと積極的に活かしていただけることを願っています。私には博士課程の学生たちは優秀でたくましい若者の集団に見え、日本の大切な財産であると思います。

6.結論:「博士課程」を人材育成に生かす社会へ

本稿では、企業の人材活用や学生の進路決定に資するため、大学の役割を「教育」と「研究」に分類し、「研究」のトレーニングである博士課程で行われることについて説明しました。博士課程経験者が「研究職」として高い能力を有することは疑いの余地がありません。しかし、その力を研究の枠内だけにとどめてしまうと、本来の半分しか能力が活かされません。博士課程で培われるのは、高度な技術的専門性を持ち、その価値を広い社会的な文脈に示し、それを説明する力です。博士課程で訓練された人材は、新たな知を創造し、既存の枠組みを打ち破ることのできる人材です。

現在、日本経済の低迷とともに「博士を活かせない日本」と各所で指摘されています。日本が不確実性の高い世界で発展し続ける上でも博士課程経験者が貢献できることは多く、産官学が相互に連携しその力を活用する仕組みを築いていくことが不可欠だと考えています。

 

謝辞:本稿の執筆にあたり、真鍋希代嗣様、吉田泰己様から貴重なご助言を賜りました。ここに御礼申し上げます。

目次

<特集>


<着任のご挨拶>


<編集後記>


執筆者経歴

日本で高校卒業後に渡米、ハーバード大学大学院博士課程(Ph.D.)、マサチューセッツ工科大学(MIT)でのポスドク研究員を経て、2014年よりシンガポール工科デザイン大学の立ち上げ教員として着任。研究分野はマイクロ流体工学およびデジタルファブリケーションの技術開発とヘルスケア・食品分野への応用。hashimoto@sutd.edu.sg

シンガポール日本商工会議所

6 Shenton Way #17-11 OUE Downtown 2 Singapore 068809
Tel : (65) 6221-0541 Email : info@jcci.org.sg

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