2.大学の役割
博士課程について説明するにあたり、まず大学の役割を整理します。大学の役割は大きく分けて「教育」と「研究」です。「教育」は既存の知識を教えること、「研究」はこれまで存在しなかった知識を生み出すことです。学生の立場からみると「教育」は高校までの経験の延長です。理工系であれば、100年以上前に誰かが見つけた定理や、装置の使い方、プログラミングなどの実務的スキルを学ぶことになります。これらは重要であり習得に時間もかかりますが、あくまで既存知識の習得が目的です。日本に限らず世界中の大学の大半で、学部教育が提供するのは「教育」です。一方で「教育」はあくまで「教育」でしかなく、世の中にこれまで存在しなかった学術的知識を生み出す「研究」とは本質的に異なる営みです。冗長に思われるかもしれませんが、この違いをあらためて共有することが博士課程について理解する上で重要だと考えており、このような説明をしました。
日本社会では「学校歴」(卒業大学の違い)は重視される一方で、「学歴」(学士、修士、博士の学位の違い)の価値は必ずしも十分に評価されていません。多くの企業人が「大学は役に立たない」と口にするのも定番ですが、それは大学の「教育」をする側面しか見たことがないことに起因するとも考えられます。本質的には「学歴」とは「既存の知識を学んだか」と「新しい知識を生み出したか」の違いに帰するものです。大学で学部教育を受け卒業した優秀な人材が、生涯で一度も「研究」に携わることなく会社に入り、そのまま退職まで勤め上げるのが日本の美しいキャリアパスですが、大学教員としては多くの方に「研究」に携わって欲しいと考えています。
大学での研究は主に教員や研究員によって遂行されますが、その中で「博士課程」は学生自身が特定のテーマに取り組み、主体的に成果を生み出すためのプログラムです。博士課程の学生は研究遂行のためのトレーニングを受け、研究成果を出すことが求められます。ここで重要なのは研究を行うこと自体が企業に資する高度人材のトレーニングになっているという点です。博士課程の研究は、プロジェクトを立ち上げ、推進し、完成させるまでに必要な多様な能力を養う場であり、その成果は単なる技術的知識の獲得にとどまりません。むしろ、これは近年教育関係者で注目されている Project-based Learning(PBL)(座学ではなくプロジェクトを通じて学びを深めていく教育の手法)と同質の教育プロセスであり、私見ですが、博士課程はまさにその最たる実践形態だと考えています。
「教育」に含まれる知識を伝える機能は、中長期的には技術革新により大幅に自動化・省力化されていくと思います。しかし一人ひとりへのフィードバックを通じて進める「研究」のプロセスは、人間の関与が続くだろうと思います。その意味で、大学が社会に提供する価値は、今後ますます「教育」(既存の知識の伝達・習得)から「研究」(新しい知識の創出)へ移っていくと考えています。