2025年7月号(No.656)バックナンバー

HOME月報概要2030年マーケティング「新たな価値創造の源泉」と「無限の可能性への扉」:AI時代の羅針盤

2030年マーケティング「新たな価値創造の源泉」と「無限の可能性への扉」:AI時代の羅針盤

DENTSU ASIA PACIFIC PTE LTD
Integrated Strategy Partner, APAC

森上 拓

はじめに

もし、あなたの顧客が製品やサービスを選ぶ際、彼ら自身が気づかない深層の欲求までAIエージェントが読み解き、完璧にパーソナライズされた「最適解」を提示するようになったとしたら、従来のマーケティング戦略は、一体どこへ向かうのでしょうか?

これはもはや、遠い未来のSFではありません。まさに今、私たちの足元で加速している現実です。ChatGPTの衝撃的な登場から数年、NVIDIAがAI開発の基盤を磐石にし、Microsoft Copilotが日常の業務に深く溶け込み、Google I/OではGeminiのさらなる進化とAIエージェントの機能強化が発表されました。DeepSeek、Claude、Perplexity AIといった新たなプレーヤーも急速に台頭し、AIはもはや大量のデータを処理するツールとしてではなく、あたかも人間の意思決定を代行するかのように賢く振る舞う「AIエージェント」の時代が、かつてない速度で到来しています。

この激動の時代において、「ブランドの存在意義は、AIが提示する推奨リストに掲載されることだけになるのか?」、「私たちマーケターや経営者の、人間ならではの真の価値は、一体どこに、いかに見出すべきなのか?」

この問いこそが、現代マーケティングが直面する最大のパラダイムシフトであり、同時に、この変化の先に広がる無限の可能性への扉でもあります。本稿では、この問いに正面から向き合い、データとテクノロジーの進化が織りなす2030年のマーケティングの未来像を、一層深く掘り下げて考察します。そして、その中で日系企業が真に勝ち残るための「新たな価値創造の源泉」とも言うべき、人間の創造性が果たす、決してAIには代替できない揺るぎない役割について提言をさせていただきます。

第一の波:AIエージェントが支配する「最適解」の選択と「アルゴリズミック・ブランド」の台頭

これまでのマーケティングは、いかに消費者に直接ブランドを知ってもらい、興味を持ってもらい、購買行動を起こさせるかという「顧客への能動的働きかけ」に注力してきました。しかし2030年には、そのプロセスに、かつてないほど強力な「フィルター」が加わります。それがAIエージェントです。

AIは膨大な過去の消費者行動データ、製品の微細な仕様、市場の動向、さらには個人の生体データや感情の機微までも瞬時に分析し、個々の消費者が「意識すらしていない潜在ニーズ」までも掘り起こし、まさにパーソナライズされた「最適解」を提示します。例えば、あなたがスマートフォンに「来週の出張で、長時間の移動でも足が疲れない靴を提案して」と問いかければ、AIエージェントはあなたの過去の購買履歴、健康データ、足の形状、出張先の気候、さらには移動手段のパターンまでを考慮し、科学的根拠に基づいた「最も疲労を軽減する」と予測されるブランドとモデルを複数提示し、その場で注文まで完了させるでしょう。顧客はもはや、ウェブサイトを検索したり、店舗で比較検討したりする手間さえ省かれることになります。この世界では、ブランドは消費者に「見つけられる」のではなく、「AIに推奨される」ことで初めて存在価値を得る「アルゴリズミック・ブランド」としての側面が色濃くなります。

この新たな時代において、企業が直面する最大の課題は、「消費者に選ばれる前に、AIエージェントに選ばれるためのアルゴリズム競争」という、極めて精密なデータ戦略と情報設計が要求される新たな次元です。

 

1.AIが信頼し、活用できる情報の「構造化」と「精緻化」、そして「意味論的明瞭性」

・AIが製品やサービスを正確に理解・評価できるよう、公開される情報を単なるテキストではなく、極めて構造化された、機械学習に適した詳細かつ正確なデータ(Schema.org、業界標準のオントロジーなど)で提供することが絶対条件となります。これは、まるでブランドの「DNA」をAIが完全に読み取れるように設計するようなものです。

 

・同時に、AIエージェントが必要な情報(公開情報、合意されたユーザーデータ、サービスステータスなど)に安全かつリアルタイムにアクセスできるよう環境を整備する覚悟が求められます。これは、機密情報や個人情報の漏洩リスクを最小限に抑えつつ、AIとの効果的な「協調領域」を見出す繊細なバランスが不可欠であることを意味します。

 

・企業内部のデジタルトランスフォーメーションを抜本的に推進し、AIモデルが参照すべき、ガバナンスの効いた信頼性の高いデータソースを構築し、その「データDNA」を最適化する基盤を整える必要があります。

 

2.明確なUSP(Unique Selling Proposition)の「アルゴリズム最適化」と「比較優位の再定義」

・AIが膨大な選択肢の中から特定ブランドを推奨するには、「なぜこのブランドが最も優れているのか」という明確な理由が、AIが認識しやすい形で提示されなければなりません。

 

・単なるキャッチコピーではなく、数値化された客観的なメリット(例:〇〇%省エネ、〇〇時間駆動、〇〇グラム軽量)や、具体的な利用シーンでの解決策が、AIの評価軸に合致するよう徹底的に最適化されることが求められます。競合との差別化要因を、AIが理解し、推奨ロジックに組み込める形で言語化・数値化する能力が、極めて重要になります。

 

 

3. ブランドの「信頼性スコア」と「倫理的透明性」

・AIエージェントは、単に機能的な最適性だけでなく、ブランドの信頼性、データプライバシーへの配慮、サステナビリティ(ESG)への貢献度、顧客サポートの質、企業の社会的責任(CSR)なども複合的な評価基準として取り込む可能性があります。AIは企業の「表層」」だけでなく、「本質」をも見抜き、その情報をレコメンデーションに反映させ始めるでしょう。

 

・企業は、倫理的かつ責任あるビジネス慣行を実践し、その情報をAIが理解できる形で透明性高く開示することが、推奨されるための条件となるでしょう。不正や不誠実な行動は、AIによって瞬時に見抜かれ、ブランドの「信頼性スコア」を致命的に低下させることになります。

 

この第一の波は、データとテクノロジーへの膨大な投資、そしてこれまでのマーケティング概念を根本から覆すほどの緻密な戦略最適化が求められます。大企業は、その豊富なデータと資金力で、この領域を先行するでしょう。しかし、これは「マーケティングの終わり」を意味するのでしょうか? いいえ、これはまだ始まりに過ぎません。

第二の波:非連続的変化と「人の心」を揺さぶるマーケティングの「新たな価値創造の源泉」

AIエージェントがどれほど賢くなろうとも、その本質は「過去のデータに基づいた最適化」であり、その予測は基本的に「連続的な変化」に留まります。AIは既存の枠内で最高の「答え」を出すことは得意ですが、「そもそも何が問われるべきか」という問い自体を創造したり、データには存在しない「未来のビジョン」を描いたりすることはできません。しかし、市場を真に動かし、人々のライフスタイルを変革し、社会に新たな価値を生み出すのは、既存の枠を超えた「非連続的な変化(イノベーション)」です。そして、その変化を生み出すのは、いつの時代も人間だけが持つ、根源的な創造性です。

ここに、AI時代におけるマーケティングの「新たな価値創造の源泉」とも言うべき、人間の創造性が果たす、揺るぎない役割が問われることになります。

 

私は、このAI時代に真に求められる人間の能力を、以下の3つの力として定義します。

1. 未来を問う妄想力

・AIは過去の膨大なデータから「相関関係」を見つけ、論理的な「答え」を導き出します。しかし、人間は、一見無関係に見える点と点をつなぎ、曖昧な「兆候」(weak signals)を捉え、誰もがまだ気づいていない「未来の問い」を立てることができます。

 

・「もし、こんな世界が実現したら?」「この技術を、常識外れな方法で組み合わせたら、どんな価値が生まれるだろう?」「人々が本当に求めているが、言葉にできていない欲求とは何か?」といった、データ分析だけではたどり着けない、大胆で、時に非論理的な「妄想」こそが、非連続的な変化の第一歩となる、常識を打ち破る思考力です。これは、未来の「空白地帯」に光を当てる能力です。

 

2. ビジョンを描くクリエイティビティ

・妄想力によって生まれた「問い」や、漠然としたアイデアを、人々の心を強く惹きつけ、未来への希望を感じさせるような、具体的で感動的な「ビジョン」として描く力です。

 

・AIは無数のクリエイティブなアウトプットを生成できますが、その一つ一つに「ブランドの魂」や「人間の感情」を宿らせ、人々に「こんな未来が欲しい」「このブランドと共に歩みたい」と心から思わせるような共感を呼び起こすのは、人間の「ビジョンを描くクリエイティビティ」です。これは、ブランドの存在意義(パーパス)と深く結びつき、単なる機能的価値を超えた、深い感情的価値と文化的意義を創造する力であり、データでは測れない「愛着」を生み出す源泉です。

 

3. 形にしていく実行力

・どんなに素晴らしい妄想やビジョンも、現実世界で「形」にならなければ意味がありません。AIは効率的なプロセスや最適な道筋を提示できますが、その道筋に予期せぬ困難が立ちはだかった時、粘り強く解決策を探し、多様な人々を鼓舞し、協働を促し、不確実性の中で「不可能を可能にする」のは人間固有の実行力です。

 

・複雑な利害関係者の調整、予期せぬトラブルへの柔軟な適応、そして人間ならではの情熱とリーダーシップが、このビジョンを現実へと引き寄せる力を支えます。これは、単なるタスク管理ではなく、困難に立ち向かい、人々を巻き込み、未来を創造する「意志の力」です。

日系企業の可能性:人間の知性が光る未来

この第二の波において、日系企業には、極めて大きなチャンスがあります。AIによる効率化と最適化が進む時代だからこそ、人間固有の強み、特に日本企業が培ってきた独特の文化と価値観が、競争優位性をもたらす源泉となるでしょう。

大規模な企業が広範なデータ戦略を採るのに対し、日系企業は特定のセグメントや、AIでは捉えきれないような微妙な感情、深い課題に対し、より深く「妄想」し、その「ビジョン」を徹底的に追求できます。日本企業が培ってきた「おもてなし」の精神や、細部に宿る「美意識」、顧客との長期的な関係構築を重んじる姿勢は、特定のコミュニティの深層ニーズや感情に特化した「人間らしいブランド体験」を創出する上で、決定的な強みとなり得ます。熱狂的なファンを育む力は、データだけでは測れません。

日本企業が持つ「品質へのこだわり」「顧客への真摯な姿勢」「社会への貢献」といった揺るぎないパーパスは、AIエージェントが推奨する上での客観的な信頼性要素となるだけでなく、消費者の感情に深く訴えかける強力なブランドストーリーとなります。この「目的」を明確に示し、日々の事業活動で体現することで、AIに理解されやすく、かつ人々の心に深く響く、唯一無二のブランドを築き上げることができます。これは、単なる機能的価値を超えた、深い共感を呼ぶブランド構築への道です。

変化が激しい時代において、迅速な意思決定と実行は競争優位となります。日本企業が伝統的に持つ「改善」の文化は、アジャイルな創造サイクルと親和性が高く、新しいテクノロジーやAIとの連携を素早く試行し、非連続的なアイデアを市場に投入するスピードと柔軟性で勝機を見出すことができます。これをAIとの協調に昇華させることで、独自の競争力を確立できると信じています。

おわりに

2030年のマーケティングは、AIエージェントによる「最適解の追求」という効率化の極致と、人間の「非連続的な価値創造」という本質的な役割が共存し、互いに高め合う、多層的な世界となるでしょう。AIは、私たちの思考を拡張し、データドリブンな活動を圧倒的なスピードで加速させる、強力な共創パートナーです。

しかし、真に人々の心を動かし、ブランドを不朽のものとし、ビジネスを次のステージへと押し上げるのは、冒頭で投げかけた問いへの私たち自身の答えに他なりません。それは、AIの計算能力や最適化ロジックを超越した、「未来を問う妄想力」「ビジョンを描くクリエイティビティ」、そしてそれを「形にしていく実行力」です。

私たちは、AI時代においても、いえ、AI時代だからこそ、この人間固有の、そして唯一無二の力を最大限に引き出し、磨き続けるべきです。なぜなら、それこそが、AIが決して侵食できない、マーケティングの「最後の聖域」であり、同時に「最も豊かなフロンティア」だからです。

「もし、消費者が製品やサービスを選ぶ前に、AIエージェントが最適な選択肢を推奨するようになったら、私たちのマーケティングは一体どうなるのか?」

この問いに対する私の答えは、「AIが最適解を提示する時代だからこそ、人間は最適ではないかもしれないが、最も心に響く『未来』を描き、それを具現化することに全力を注ぐべきである。そして、その『未来創造』の力こそが、マーケティングの新たな勝利条件となる」ということです。

皆様のブランドが、人々の心に深く刻まれ、未来を共に創造する存在となるために、ぜひこの未知なる、しかし無限の可能性を秘めた旅路を共に歩みましょう。

目次

<特集>


<着任のご挨拶>


<編集後記>


執筆者経歴

森上 拓(もりかみ たく)

日本でキャリアをスタート。その後、タイ、中国、タイ、シンガポールと、15年以上にわたりアジア各国で多様なビジネスに挑戦してきました。何事も100%はありえない。だからこそ、人生もビジネスも選択の連続です。私の羅針盤は常にシンプルです。「計算や常識を飛び越えるアイデア」「未来を描く確固たる意志」、そして何よりも「迷ったら面白い方を選ぶ」。この信念が、私を動かす原動力です。この「常識にとらわれない発想と未来への意志」を追求する中で、次にどんな未来を創造できるのか。共にワクワクできる方との出会いを楽しみにしております。

taku.morikami@dentsu.com

シンガポール日本商工会議所

6 Shenton Way #17-11 OUE Downtown 2 Singapore 068809
Tel : (65) 6221-0541 Email : info@jcci.org.sg

page top
入会案内 会員ログイン